ラストバージン
「あ、やっぱり近所だ」


独り言のように呟いた榛名さんが、正面の右側寄りを指差した。


「うちはあのマンションなんです」


ここからだとまだ三分は掛かるだろうけれど、予想以上に近い距離に目を小さく見開いた。


「じゃあ、僕はこれで。ココア、ご馳走様でした」

「いえ。私の方こそ、送って頂いてありがとうございました」

「気にしないで下さい。ご近所さんですから」


榛名さんは口元に楽しげな笑みを浮かべ、「おやすみなさい」と口にして踵を返した。


それから数歩進んだところで急に立ち止まった彼が、ゆっくりと振り返った。
何だろう、と考えるよりも早く、柔らかい笑顔が向けられる。


「これからは、ご近所さんとしてもよろしくお願いします」


表情と同じ柔らかい声音でそう言った直後には、返事をする暇もなく背中を向けられていて……。

「あっ、おやすみなさい!」

近所迷惑にならない程度の声を出し、振り返って会釈をした榛名さんが角を曲がるまでその場に立っていた。


五階へと上がるエレベーターの中で昼間に抱いたストレスがすっかり小さくなっている事に気付き、思わず表情が和らぐのを感じながら軽い足取りで部屋に入った――。

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