雨の日は、先生と
ガタゴトと物音がして、眠りの世界からふっと引き戻される。

目を開けると、明るかった部屋は真っ暗になっていた。

――私、一体どれだけ眠ったんだろう……。

その時、パチリと電気が点いて、私は飛び上がりそうになった。



「起こしてしまいましたか?よく眠っていましたね。」



霞んだ目に、私を覗き込む先生の顔が映る。
優しい声が、私の心に沁みとおってゆく。



「笹森さん、何が食べたいか訊こうと思って電話したのに、出ないので。」


「え、電話?」


全然気付かなかった。
そんなにぐっすり眠っていたのか――。


「だから食べられそうなもの買ってきました。」


そう言って、私の火照った頬にひんやりとしたものを押し付ける。


「つめたっ!」


先生はくくっと笑って、押しつけたものを離した。


「アイスでしょう?ゼリーに、スポーツドリンク。りんごも買ってきたので、後で摩り下ろしてあげましょう。……その前に、お粥を作ってあげますから、しっかり食べないと、……どうしたの。」


自分でも無意識のうちに、頬を涙が伝い落ちていた。
どうしよう、止まらない。
先生が不思議そうな顔で私を見つめているのに。


「苦しいですか?」


そう言って、私の額に冷たい手を乗せる。


「まだ少し、熱があるみたいですね。」


ちがう、先生。
そういうことじゃないよ。


「大分弱気になってしまったみたいですね。」


そう言って、今度は優しく頭を撫でてくれた。
それが、あまりにも心地よかったから。
いつもの私の心の柵を越えて、言葉が零れ落ちた。


「先生……。」


「はい。」


「私、慣れていないんです。……優しくされることに、慣れてないんです。」


震える声で言うと、先生は微笑んだ。



「なんだ、そういうことでしたか。」



ほら、また。
そんな何もかも分かっている、というような顔をして。

先生は、私の心の奥深くを揺さぶる。
この人のそばにいられたら、何もいらないと思ってしまう。



「人は、一生に同じ分だけ優しさを受け取るんですよ。」


「え?」


「もし笹森さんが、これまでにたくさん涙を流してきたのなら。」


先生は、優しい優しい声で続ける。
小さな子どもを諭すような声だと思った。


「笹森さんはこれからもっとたくさんの、優しさを受け取って生きていくんです。」


「先生……。」


「私のようにもう、人生の後半に差し掛かった者が言うのだから、確かですよ。」


そして、優しい目をした先生は、つぶやくように言った。


「人生、悪いことばかりじゃありません。生まれてきた意味のない人なんて、一人もいません。」


先生の一言一言が、胸に染み渡っていく。
同時に、せっかく止まった涙が止まらなくなる。




「悲しみも、苦しみも、いつか誰かを温める術になる。」




そっか、だから先生は、そんなに優しいんだね。
先生も、何か計り知れないものを抱えているんだね。




「人はいつか、誰かを愛する。そのために、生まれてくるのです。」



その声があまりに切なくて、先生の目が心なしか光っていて。
私は先生を、見つめていることさえできない。


先生は、そんな空気を破るかのように立ち上がった。



「お粥を作ってきますね。」



約束を破りそうになるよ、先生。

私、本当は知りたい。
先生の秘密、何もかも知りたいよ。

でも、そんな権利がわたしにあるはずもなくて――

好きです、と言いたくても口にすることは許されなくて――



あの日、放課後の数学科準備室で、日誌の片隅に書いた文字。
それだけが、私に許された先生への告白だったんだ。
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