雨の日は、先生と

あなたがくれた勇気

久しぶりに帰った家は、空恐ろしいくらいに静かだった。

誰もいないかと思ったくらい。


そろそろと足音を立てないように歩く。

もう二度と、この前みたいなことになりたくなくて。


居間のドアをほんの少しだけ開けて、様子をうかがう。

やっぱり、誰もいない。

そう思った時だった。




「あれ?」




ソファーの向こう側に、白いものが見えたような気がしたのだ。




「……お母さん?」




声が震えているのが、自分でも分かった。

ドアを思い切り開け放して、その物体に駆け寄る。




「お母さんっ!!!」




そこに横たわっていたのは、紛れもなく母親だった。
血の気のない頬と、生気のない目。

どうしたの、どうしてこんなことに!

私がいなかったばっかりに。
家を飛び出したばっかりに。




フラッシュバックするかのように、あの日の記憶が蘇る。

いつも、その寸前で思い出すのを止めていたのに。




記憶の中の幼い私は、お風呂場を覗いた後、悲鳴を上げて崩れ落ちた。




バスタブの中で、真っ赤なお湯の中に浸かる、父親を見てしまったから―――





「いやあああああ!!!!!!!」




思い出してしまった光景と、目の前の光景とが重なって、私は固く目を閉じて叫んだ。

ほら、私さえ生まれてこなければ、こんなことにならなかったのに。

お父さんもお母さんも、幸せに暮らしていたのに……。




「……唯?」




その時、聞こえてきた弱々しい声に、私は恐る恐る目を開けた。




「お、母さん、……お母さん生きてるの!!」




「うるさいよ。酒飲んでたんだよ。まとわりつくんじゃねーよ。」




「よかった……。」




胸をなでおろすとともに、涙が止まらなくなる。
お酒を飲んだだけじゃない。
きっと、お母さんはここ数日、まともにご飯も食べてない。



「あいつ、もう来ないから。」



「……大路さん?」



「ああ。」



ああ、よかった。
これでまた、前の生活に戻れる。
意地悪な大路さんに、追い詰められることはもうない。




その時、母は高らかな笑い声を上げ始めた。
私はぎょっとして、母を見つめる。





「……それにしてもさ、唯は私に似たよね!!!」



「……そう、かな。」



「男好きでさ!人の男は自分のものにしないと気が済まないってタイプ?……まったく、笑えるわ。」



そう言う母の目は、まったく笑っていない。


ああ、そうか。


母は、大路さんのこと許してくれたわけじゃないんだ。


なにか、とてつもなく大きな誤解を抱えたまま。



「それに、ここ数日、どうせ男のところに泊まってたんだろ?高校生なのにさ、やるよね、唯は。」



実の母親とは思えない言葉。
そして、冷たい笑い声。


分かってる。
すべては、運命のせいだって。


お母さんは悪くない、それは知っている。




でも、私、先生に教わったから。

愛されるということが何か、教わったから―――




「違うよ、お母さん。」




あらん限りの勇気を振り絞って、そんな言葉を発した。
< 44 / 119 >

この作品をシェア

pagetop