【完】そろり、そろり、恋、そろり
背を向けてソファに座っていた拓斗君が、ゆっくりとした動作で私の方へと振り向いた。よく見ると彼の手元には、今日購入していた本が握られていた。きっと読みながら私を待っていたんだろう。


勉強熱心だなって関心するとともに、彼はこの状況に緊張していないのに、私ばかりが緊張していることに少し残念な気分になった。拓斗君の慣れている感じに、嫉妬心が生まれ始めている。


「ドライヤーの場所分かりました?」


「うん、分かったよ。ありがとう、出していてくれて」


彼が尋ねたことに対して、冷静に答えた。……私の嫉妬心に気付かないのは当然か。私は何も言っていないんだから。勝手に感じる嫉妬心で、この時間を壊したくない。


拓斗君の隣に私も座ろうと、傍まで歩み寄ると彼が立ちあがってしまった。予想していなかった急な行動に、びくりと肩を揺らす。





「麻里さん、お願いがあるんですけど、いいですか?」


意味が良く分からずに、私は首を横に傾けた。だってお願いの内容も分からないから、うんと頷く事も出来ない。


「ちょっとこれの練習に付き合ってくれませんか?」


今度は少し具体的な言葉を頭上からかけられる。私の目の前に持っていた本を掲げながらの言葉だった。そこでやっと彼の言っていることを何となく理解できてきた。


「いいよ」


……仕事の話だね。緊張していた私の気持ちを返して欲しい、なんて自分勝手な考えが頭に浮かんだ。了承はしたものの、もっと空気を読んで欲しいなとため息を漏らしたくなったけれど必死に堪えた。ただ苦笑まで我慢することは出来なかった。もっと甘い雰囲気を期待していたのに。


「本を読んでたら、今のうちに練習したくなってしまって。仰向けに寝た状態で肩を動かしたいので、あっちの寝室にお願いします」


私の微妙な反応には気付かなかったのか、そのまま寝室へと誘導されてしまった。仕事熱心な彼も好きだからと言い聞かせながら、寝室のベッドに横になった。


「この辺りでいい?」


「いい感じの場所です」


ベッドの端の方に寝た状態で彼に問いかけた。拓斗君はというと、サイドテーブルに広げた本を置いて、どこから持って来たのか小さな丸いスツールに腰掛けている。ベッドの高さよりも随分と低いところに座っていた。
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