氷の卵
息を切らして病室の前にたどり着いた。
そっと深呼吸をして、息を整える。

ドアを細く開けて、そこで私は動きを止めた。

私が入っていかない方がいいと、直感的に悟ったのだ。


「香織……、ごめんな。兄貴のやつ、どうしても来られないって……。」


――兄貴……。


啓にお兄さんがいたなんて、知らなかった。


「来るわけないもん。……分かってるよ。」


香織さんは切なげに笑う。


「ほんとに、ごめん。あんな兄さんで。……でも、あいつ今でも、香織のこと愛してるんだ。」


――はっとした。私は何か、大きな勘違いをしていたのだ。


「ありがとう。……花束。」

「あいつだろ。伝えておくよ……。」

「啓でしょ?」

「え?」


啓の表情が固まる。
香織さんは切ない顔のまま、笑った。


「知ってたよ、一番最初から。……浩さんがそんなことする人じゃないって、そのくらい分かるよ。」

「違う。」

「それにあの字は、啓の字だって知ってた。浩さんの字はもっと大胆なんだよ。」

「香織……。」


啓は落胆したように肩を落とした。

でも香織さんは、嬉しそうに微笑んでいたんだ。

微笑みながらも、目の端からつーっと涙が落ちた。

さっきまで輝いていた目が、急に光を失う。


「香織!」

「好きだよ……、好きだったよ。」


弱々しい声で香織さんが言った。


「ごめん……ここにいるのが僕で……。」


啓は本当に申し訳なさそうな表情で、香織さんの手を握る。
目には涙が光っていた。


「ち……が、う。」


香織さんが、途切れる息の中で懸命に言葉を紡ぐ。


「啓が……啓が好き。」


香織さんがそう言った瞬間に、啓が耐え切れずに叫んだ。


「香織!香織……行かないで。行っちゃだめだ!」


香織さんはふっと頬を緩める。

まるで、子どものように泣いている啓を、慰めるように。


その顔を見て、啓は香織さんにそっと近づいた。
私は、音をたてないようにドアを閉める。

背中越しに、愛してるよ、という啓のささやくような声を聴いた。

そして、その直後。

香織さんがもう二度と目覚めないことを知らせる、機械音が響いた。


私は手に持っていたカーネーションを落とす。

こんなに鮮やかな花は、もう香織さんには似合わない。



静かな病室の中の啓を想いながら、私は外のベンチで静かに泣いた。


香織さんと啓のために、泣いた。
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