Sの陥落、Mの発症
躾、開始
「あの、中條課長…」
「…丸井くん、どうしたの?」

PCから顔を上げると先日仮配属になったばかりの新入社員がいくつかの書類を手に私を見ていた。
その表情は何とも言えず複雑な顔をしている。

「狭山さんから預かりました。承認お願いします…」
「ああ、来月の予算ね」

すでに確認済みの書類にさらっと目を通して印鑑を押す。

「はい、よろしくね」
「ありがとうございます…あのっ」

書類を受け取った丸井くんはなかなか立ち去ろうとせず、意を決してというように口を開いた。

「中條課長のコーヒーにペンが浸かってますッ」
「え?」

デスクを見ると確かにマグカップの中に淡いブルーのペンが斜めに入っていた。

「やだ何これ!」
「すみません、もっと早く言えば良かったんですけど、課長さっきそれでかき混ぜられてたので…」

複雑な表情の理由はこれか。
彼は言うだけいうと「失礼します」とそそくさと去っていく。

絶対変な上司だと思われた。
仮配属終わってここだけは嫌だとか言われたらどうしよう。

「はぁ…」

時計の針はどんどん進んでいくのに、いつもならとっくに片付いているはずの仕事がまだ机上に残っていた。

正面に三台ずつ向かい合わせに並べられた机の島の端、主のいない席を睨み付ける。

こんなことになったのも全部あの男のせい。
あの目が脳裏に焼き付いて、ふとした瞬間に私の思考を支配する。

「もうなんなのよ!」
「荒れてるな」
「!」

誰もいないと思っていたフロアから声がした。

「…樫岡くん!?」
「久しぶり、中條」

入り口に立っていたのは一年前まで一緒に仕事をしていた同期だった。
嫌味なくらい長い手足に相変わらず趣味のいいスーツを着こなしているところを見る限り、筋トレの趣味は健在らしい。

「え、どうして?名古屋にいたんじゃ…」
「戻ってきた。先方との兼ね合いで着任が遅れたんだ。明日から企画」
「そうだったんだ」
「誰かいるかと思って顔出して良かった。久しぶりに付き合えよ」
「うん、そうね。もう今日は仕事する気分じゃないし」
「せっかくの再会だってのに早々に聞き役だなこれは」
「…同期との再会を喜びたいだけよ」
「冗談だ。いくらでも聞いてやるよ」

仕事では戦友、プライベートではこうして軽口を言い合える。彼はお互いの距離感が絶妙に合う、貴重な友人と呼べる男だった。

久しぶりの再開に私は少し舞い上がっていたのかも知れない。

二人で店へ向かう途中、出先からの直帰だったはずのあの男に見られていたとは思いもしなかった。

< 5 / 39 >

この作品をシェア

pagetop