Sの陥落、Mの発症
平日というのもあり、店内は人も疎らでゆったりとした空気が流れている。
一見ブリティッシュパブの雰囲気だが客の年齢層は比較的高く、気軽に飲めて落ち着けるからとよく一緒に飲んだバーに来ていた。
彼が名古屋支社に異動になってからはなんとなく足が遠退いている。

「で、スピード出世のエリート課長様が何に振り回されてたんだよ」

一通りお互いの近況を報告したあと、来るだろうと思ったタイミングで彼は口火を切った。

まさか年下の男にからかわれて仕事が手に着かなかったなんて口が裂けても言えない。

「同期の中で一番早かったくせによく言うね」
「好きな女に先を越されるのが嫌で必死だったんだ」
「…相変わらずみたいね」
「中條こそ、すぐ赤くなるところは変わらないな」
「ほんと良い性格だわ樫岡くん」

会話の中でさらっと口説き文句を織り混ぜてくるのはいつものことだ。本人に言わせれば「女性の可愛い表情が見たいと思うのは普通のこと」らしい。
恋愛経験がそう多くない女にとっては全くもって迷惑なことだ。

「冗談はおいといて」

その冗談でいつか痛い目を見るわよと心の中だけで抗議しておく。
話の続きを促すように視線を投げてきた。

「別に大したことないの。課長になって初めて新入社員が入ったり、別の部署から異動があったり、ベテランが抜けたりしてまだ課の体制が整ってないから色々忙しいだけ」

それは嘘ではなく事実だった。
ただその中の厄介ごとが一つ増えただけで。

「…そうか。まあ初めはみんなそんなもんだろ。きつくなったらいつでも話は聞いてやるから」
「ありがとう」

気のおけない同期との久しぶりの再会は、多少心のゆとりを取り戻す良い時間となった。


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