徹生の部屋
「お待たせしました」

せっかく昼間の汗を流したというのに、慣れない着付けに悪戦苦闘したためか顔が熱い。
でも原因は、それだけじゃないのかも。

徹生さんの着替えはとっくに終わっていた。
黒に近い濃紺に細い縦縞が走る浴衣に、博多織の角帯をきりりと締めた姿は、スタイルの良さを際立たせる。
和服って、日本人体型のほうが様になると思い込んでいたけれど、どうやらそれは間違いだったみたい。

御曹司というよりも、「よっ! 若旦那」と声をかけたい思いに駆られた。そんなこと、絶対にできないけれど。

一方、私はといえば、浴衣を着るだけで手一杯。
髪型なんて、適当にお団子を作って、包みに一緒に入っていたガラス細工の金魚が揺れる簪を突き刺しただけた。

これではまだ、ひとり浴衣で浮いていたほうがマシだった。
巾着の紐をいじいじといじくる。

「楓さん。少し失礼します」

私の後ろに回った楢橋さんが、いきなり帯の結び目を解いてしまった。

「おい。おまえ、なにをっ!」

私より先に徹生さんが目を瞠り、楢橋さんの腕を強く握って止めさせる。
自分の背後で起きている攻防を、身体をひねってみようとしたら背筋がつりそうになった。
クスッと控えめな笑いとともに、楢橋さんは徹生さんの手をやんわりと外す。

「安心してください、帯を結び直すだけですから」

その言葉通り、ギュッと身体が持ち上げられそうなくらい結び目が締め直される。正絹の半幅帯からしていた衣擦れの音が止み、完了の合図代わりに肩をぽんと叩かれた。

壁に掛けられた鏡に映った後ろ姿は、ゆるゆるだった、ただの文庫結びから、上下の羽の長さを変えたかわいい花文庫になっていた。

帯が決まると、不思議なことに姿勢までシャンとする。

「ありがとうございます。上手なんですね」

「いえ。寿美礼さんもよく帯を崩すので、覚えてしまったんです」

みるからにご令嬢といった風情の彼女が、帯の形が崩れるほど雑な動きをすることにも驚いたけれど、それよりも気になったのは、寿美礼さんのことを語るときの楢橋さんの表情だ。

これって、もしかして……?

「時間が押している。行くぞ」

打ち上げ開始は19時だが開会のセレモニーなどもあるし、渋滞も考えるとギリギリだという。

真新しい桐下駄に素足を通し、エントランスに駐車していた樺嶋家の車に乗りこむ。私たちが後部座席に乗車してドアを閉めた楢橋さんは、運転席に回る際に屋敷の上空を見上げた。

お天気が心配なのかな。でも今夜は雷雨やゲリラ豪雨の予報もなく快晴のはずだ。
私も気になって空を見ようとしたけれど、自動車の閉められた小さな窓からはちょっと無理だった。



< 53 / 87 >

この作品をシェア

pagetop