鉄仮面女史の微笑みと涙
大丈夫
柳沢先生に相談した日は、家で夫と顔を合わすこともなくホッとした
次の日もちょっと早く出勤したのでまた夫とは顔を合わせなかった
最近はこんなことも珍しくなかったので夫も別に何も思ってないだろう
会社に着いて、昨日出来なかった仕事を片付けていたら、他のメンバーも次々と出社してきた
それぞれに昨日はすいませんでしたと頭を下げた
特に相川課長には迷惑かけたことを謝ると、いつか埋め合わせしてもらうからと優しく言ってくれた
みんな気にはしているんだろうけど、深くは聞いてはこなかった
最後に皆川部長が出社してきたので、皆川部長のデスクに行こうと席を立った


「皆川部長、昨日は……」
「加納課長、ちょっとこっちで話そうか」
「はい」


皆川部長の後に続いて打ち合わせ室に入り、それぞれ座ると皆川部長から口を開いた


「柳沢から連絡あったよ。決心したんだって?」
「はい。でも、なんで部長は私が夫のことで柳沢先生の所に行くって分かったんですか?それに、昨日背中を押してくれなかったら、私、何もしなかったと思います」
「そうだよな。あのさ、気を悪くしないで聞いてくれるか?」
「はい」


部長は社長が私の身辺調査をしていたこと
その結果と私の言動を見て、私が夫にモラハラを受けてるんじゃないかと判断したことを話してくれた
しかし、私が社長とあの日話したのはほんの10分程度のことだ
そんなわずかな時間で判断したというのか?


「言っただろう、社長は曲者だって」


部長は苦笑しながら続けた


「数年前、進藤課長に噂が流れたのを知ってるか?それを救ってやれなかったことを社長は後悔していてね。だから余計に君を放っておけなかったんだと思う」


数年前、進藤課長に流れた噂は知っていた
それを救ってやれなかった社長
だから、今度は私を救ってやれと皆川部長に頼んだ
私なんかの為にそんなことをしてくれていたなんて申し訳なかった


「進藤課長の噂は会社でのことだったけど、君の場合はあくまでもプライベートの問題だ。どこまで踏み込んでいいのか分からなくてね。それで柳沢に相談したんだ」
「じゃ、柳沢先生が皆川部長に会いに来たのって?」
「そう。君の事で呼び出した。一種の賭けだったよ。これは、君が柳沢に相談しなければ何も始まらないからな。でも良かった。君が電話してくれて」
「部長……」
「これだけは覚えといてくれ。僕が君を救おうと思ったのは、社長に頼まれたからだけじゃない。君は海外事業部に、この会社に必要な人間だ。だから、もっと自信を持ちなさい。君はダメな人間なんかじゃない」


部長の言葉に泣きそうになったが涙を堪えて言った


「ご迷惑お掛けすると思います。これからもよろしくお願いします」


私がそう言うと部長はにっこり笑った


「じゃ、仕事に戻ろう」
「はい」


打ち合わせ室から席に着いて、あっと思って部長に言った


「部長、そろそろ役員室での仕事しないと秘書室の方々が困るころだと……」
「……誰に頼まれた?」
「あ、えーっと……」


私が目を泳がせていると、相川課長とバッチリ目が合ってしまった
その瞬間、相川課長が吹き出した


「進藤か」
「あの、部長。なんか、すいません。私……」
「進藤も考えたな」


皆川部長は一瞬頭を抱えていたが、すぐに立ち上がった


「役員室に行ってくる」


部長はちょっとムスっとした顔をして出て行った
みんなが関心したように私を見るので、思わず俯いた


「加納課長、君、凄いね。それに昨日とは顔が全然違う」
「神崎課長」
「何があったかは知らないけど、いい方向に向かってるんじゃない?良かったね」


みんなを見ると優しく私を見てくれていた
そして各々仕事を始めた
そんなみんなの心遣いが有り難かった



その日のうちに私は会社の隣にあるO銀行で口座を作り人事課へ行って給料振込の変更手続きをした
やっぱり今月の給料には間に合わないので、来月の給料から新しい口座に振り込まれるとのことだった
それから数日は何事もなく過ぎて行った
柳沢先生は何も用事がない時も大丈夫か?とメッセージが来る時もあった
その心遣いが私には心強かった
そんなある日、皆川部長に呼ばれた


「加納課長、パスポート持ってるか?」
「はい、更新だけはしてます」
「良かった。このメンバーに加納課長を入れといたから」
「海外、研修ですか?」


渡された書類は来月に行われるアメリカでの海外研修の日程表
海外研修とは名ばかりのほぼ観光旅行だ
でもこれは、先月にはメンバーが決まっていたはず


「海外事業部の課長3人の中で海外での経験がないのは君だけだからな、行って来たらいい」
「でも、先月にはメンバーは決まってたと思うのですが?」
「だから、社長に頼んで君を入れてもらった」
「社長?!」


またここで何故社長が?
私が首を傾げていると、皆川部長はにっこり笑って言った


「その研修の日程をよく見てみろ」


部長に言われて日程表をよく見てみる
期間は2週間
日付は、給料日を挟んでの2週間だった
帰国するのは給料日の1週間後
つまり、夫に給料の振込口座を変更したことがバレる日には私は日本にいないということ


「そうだ。アパートは決まったのか?」
「今日柳沢先生と一緒に行くことになってます。まだ決めてはいませんが」
「そうか。できるだけ研修までに決めて、そのアパートに荷物を移動させるんだ。そしてそのままもう家には帰るな」
「部長……」
「それと、2週間席を空けるんだ。研修までは死ぬほど残業してもらうぞ」


残業するということは、家にいなくてもいいということ
夫と顔を合わせなくてもいいということ
私が何も言えないでいると皆川部長が口を開いた


「加納課長、あともう少しの辛抱だ。やれるな?」
「……はい」
「何かあればすぐに言うんだぞ?」
「はい。ありがとうございます」


そう、あともう少しで夫と別居できる
それだけで私は嬉しかった
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