鉄仮面女史の微笑みと涙
その日の帰り、私は柳沢先生の事務所へ足を運んだ
先生の秘書の野上郁也さんがコーヒーを出してくれた
野上さんは司法浪人中で、実益も兼ねて先生の事務所で働いているらしい


「先生、俺今日もデートなんで帰ります」
「またかよ?」
「いいじゃないですか。先生も早く彼女見つけた方がいいですよ。いつまで独身でいるつもりなんですか?」
「うるさい、早く帰れよ」
「じゃお先で〜す。加納さん、ごゆっくり」


野上さんが出て行くと先生はため息をついた


「悪いな騒がしくて」
「いいえ。あの、先生は独身だったんですか?」
「ん?ああ、バツ1なんだ。20代の時に結婚したけど1年ぐらいで離婚した。お互い弁護士で忙しくてすれ違いの生活。それなら夫婦でいる意味ないってことで離婚。弁護士同士だから揉めることもなかった。何だ?俺が独身なのがそんなに意外か?」
「いえ。皆川部長の同級生なので、勝手に結婚してると思ってました」
「なるほどね。で、あんたの方は?大丈夫か?」
「はい。まだ夫にはバレてません。というか、ほぼ会話もないですから」
「そうか。じゃ、行きますか」


そう促されて、先生の車でアパートに向かう途中、来月海外研修へ2週間行くこと、帰国するのは給料日の1週間後だということを伝えた



「皆川部長に帰国したらそのまま家に帰らずに、アパートへ帰るように言われました」
「それがいいだろうな。しかし皆川もやるなぁ。あんたを海外に行かせるなんて思いもしなかった。帰国する日は何時に到着だ?」
「あ、えっと、15時半頃に成田空港到着です」
「その日は会社に寄るのか?」
「多分そうなるかと」
「旦那にはなんて言うつもりだ?」
「その日も会社に帰って溜まった仕事しなくちゃいけないから残業になる。だから遅くなるからと言った方がいいと、皆川部長に……」
「うん。そうした方がいい。あんたの携帯、海外でも使えるのか?」
「はい、確か使えるはずです」
「旦那からの電話には絶対出るなよ」
「はい。分かってます」
「よし。あ、ここだ。着いたよ」


先生が指差す方を見ると、お洒落な建物が見えてきた
車を降りて、先生に最上階の部屋へと案内された
中に入ると、1LDKながらも広い部屋だった


「一人暮らしでもこれくらいの広さがあった方がいいと思ってな。ここなら入り口はオートロックだから部外者はむやみやたらに入れないし安全だから。家具家電もついてるしとりあえずは困らないだろ」
「すごい……」


一通り部屋を見て回ったが、何も言うことがなかった

また築浅なのかどこも綺麗だし、家具家電がついているのが嬉しいし、一番気に入ったのは窓からの景色だ


「綺麗……」


私が景色に見とれていると、先生が隣に来て言った


「ちょっと高台にあるからな。気に入ったか?」
「はい。もちろん。あの、先生。家賃はどれくらいなんでしょうか?」
「今ここのオーナーと交渉してるからまた今度。心配すんな。ちゃんとあんたの給料で払える範囲だから。じゃ、ここで決めていいか?」
「はい。よろしくお願いします」
「じゃ、これが鍵。大変だろうけど、あんたの荷物を少しずつここに移動させとけよ」
「はい、分かってます。でも、そんなに私の荷物はあんまりないので大丈夫ですよ」


私が俯いていると、先生が私の肩に手をポンと置いて言った



「大丈夫か?」
「え?」
「旦那はあんたに、ひどいことしてないか?」


先生は本当に心配そうに私を見て言った
私は下唇を噛んで頷いた


「大丈夫です」


先生はこの前と同じようにまた吹き出した


「先生、また笑うなんて……」
「ごめん。今の『大丈夫』は『助けて』に聞こえたよ」



びっくりして先生を見ると、先生は真剣な顔で優しく言った


「絶対に助けてやる。だから、もう少し辛抱してくれ」


先生の言葉に泣きそうになったけど、俯いて下唇を噛んだ
先生は私の頭をポンポンとしてくれた
この人なら私を助けてくれる
あの夫から解放してくれる
心からそう思った
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