鉄仮面女史の微笑みと涙
柳沢先生の事務所は本当に会社から近く、歩いて5分ぐらいで迷うことなく着くことができた


「このビルの2階か……」


先生の事務所は、いろんな弁護士事務所が入っているビルの一角にあった
柳沢先生の事務所の前に着き、扉をノックしようとしたら先にドアが中から開いて先生が現れた


「よう」
「あ……」
「足音が聞こえたもんでな。どうぞ」
「はい、失礼します」


先生の事務所に入ると応接室へと案内されてソファーに座った
しばらくすると柳沢先生自らコーヒーを持ってきてくれた


「悪いな、秘書やってる野上ってやつが、今日は彼女とデートだって早く帰ってな。まずいかもしれないがどうぞ」
「あ、はい。ありがとうございます」


私がコーヒーを飲んでいると、柳沢先生が私をじっと見ていた


「あの?」
「ああ、すまん。この前会った時と比べて、ちょっとはマシな顔になったなと思ってな」
「え?」


びっくりしていると、先生はにっこり笑った


「それで?何故離婚しようと?何かきっかけがあったか?」
「はい。今日、取引先から会社に帰る時、夫が女性と腕を組んで歩いているのを見てしまいまして……」
「なるほどね。でも、それを見て衝動的に俺に電話した訳じゃないんだろ?」
「はい、あの……」


それから私は夫と出会ってから今までのことを、たどたどしく先生に話した
夫に言われたこと、されたこと
夫との夫婦生活
途中、思い出すのが辛くて言葉に詰まることもあったが、先生は辛抱強く私の話を聞いてくれた
ある程度話し終わると、先生は大きく息を吐いた


「加納さん、モラルハラスメント、略してモラハラって言葉知ってるか?」
「モラハラ……聞いたことはありますが、詳しいことは」
「DVっていうのは?」
「それもなんとなく」
「DVは、配偶者や恋人から受ける肉体的な暴力。モラハラは、言葉や態度によって受ける精神的な暴力。あんたは間違いなく旦那からモラハラを受けてる」
「……え?」


私がモラハラを受けてる?
どういうこと?


「モラハラ受けてる人は大概あんたみたいな反応をする。旦那からお前が悪い、お前がダメだからと言われ続けて、旦那が怒るのは自分のせいだからと思ってるからな。でも悪いのはあんたじゃなくて、旦那だ」
「悪いのは、夫?」
「そう、あんたは何も悪くない」


私は悪くない
その言葉に少しだけ心が軽くなった
私を見て先生はにっこり笑って、でもなぁと言った


「モラハラはDVと違って目に見えない。証拠が残らないんだ。だからなかなかモラハラが理由で離婚まで持って行くのは難しい」
「そうなんですか……」
「まあでも、旦那が浮気してるんならいい材料になる」


先生はニヤっと笑った


「旦那の身辺調査をしてみるよ。それと、別居したほうがいい。あんたもそんな旦那と暮らしたくはないだろう」


別居
今までそんなこと考えたことがなかったことに気がついた


「あんたの給料なら一人暮らしするくらいなんでもないだろ?」
「でも、私の給料は夫が管理してますので」
「旦那が?」
「はい、銀行員だからと。結婚当初から」
「口座も旦那の銀行か?」
「はい」
「生活費はどうしてたんだ?」
「それは、夫から決まった金額を毎月貰ってました」
「いくら?」
「5万円です」
「食費も全部込みでか?」
「はい」
「じゃ、あんたの自由になる金は?」
「ほとんど残りません」


私がそう言うと、先生はちょっと考えて言った


「F社の隣に銀行あったよな。そこは旦那の銀行か?」
「いえ、O銀行なので違います」
「じゃ、そこに口座作って給料振込みもその口座に変更出来るか?」
「はい、それは私の職場で手続きすることなので」
「いつから変えられる?」
「すぐ変更しても、来月の給料からかと」
「そうか」


先生はまた考え込んだ


「来月の給料日まで今まで通りに旦那と暮らせるか?」
「え?」
「あんたが俺に相談してることも、給料の口座を変えたことも、旦那にはバレないほうがいい」
「あ……」


私が離婚を考えていることが夫にバレたら、多分夫は逆上する
それは私にとって恐怖だ
そのことを考えると俯いて下唇を噛んだ


「……さん、加納さん?」
「あ、はい。すいません」
「どうせ来月の給料日にはバレることだ。1ヶ月間、大丈夫か?」


1ヶ月間、バレないように
今まで通りに
大丈夫、大丈夫……
私は震える手を握りしめながら言った


「……大丈夫です」
「本当に?」
「はい」


私は真剣に言ってるのに先生は私の顔を見て吹き出した
びっくりしていると、先生はごめんごめんと言った


「あんたの『大丈夫』は世界一当てにならない『大丈夫』だな」
「そんな、私は真剣に……」
「だからごめんって」


先生はひとしきり笑い終えると、分かったと言って私を見る


「少しでも不安があればいつでも連絡くれていいから。これ、俺の携帯の連絡先。あんたのも教えてくれるか?」
「あ、はい」


私達は連絡先を交換した


「あの、先生?」
「ん?」
「来月の給料日までに、アパートとか借りたいんですけど」
「そうだよなぁ、自分の給料自由にならないとなんともならないよなぁ。実家は?近いのか?」
「いえ。実家は九州なので、頼れません」
「そうか。じゃ、俺が探しとくよ。セキュリティーがしっかりしてないと、旦那が押しかけてくる恐れもあるしな」
「いいんですか?そんなことまで」
「これから俺はあんたの代理人だからな」


優しく笑う先生に、ふっと力が抜けた
すると先生は、ちょっとびっくりしたような顔をしたので、私は首を傾げた


「先生?」
「いや、なんでもない。じゃ、これからよろしくお願いします」


先生はにっこり笑って右手を差し出した
その笑顔にちょっとだけドキッとした


「よろしくお願いします」


私は先生に右手を出して頭を下げた


あと1ヶ月で夫と別居出来るかもしれない
それだけで、私はなんとも言えない緊張感から解放されたような気がした
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