君の日々に、そっと触れたい。

「何が出来るだろう」

【李紅side】




桜をアパートまで送ってから、逆方向の自分の家に帰ると、もう日付が変わっていた。

寝ているかもしれない家族に気を使って、なるべく音を立てずに玄関の扉を開けると、リビングから廊下へ、小さな明かりが漏れていた。

足音を殺して近付くと、キッチンの小さな明かりの中で、何かを…多分、明日の俺のお弁当を作っている母さんの背中が目に入った。


「母さん……」


声を掛けると、母さんはすごい勢いで振り返り、すぐにほっとしたような笑顔を浮かべる。


「李紅……心配してたのよ。あんまり遅いから」

「ああ、ごめん。ちょっと海に行ってた」

「海?ふふ、春の海もなかなか素敵だけど、潜るには早いんじゃない?」


そう言って母さんは膝上までずぶ濡れの俺のズボンを指さした。


「ああ、これは…。海にうっかり大切なものを落としそうになってる女の子が居てさ」

「大切なもの?」

「うん、すっごく。だから俺はそれを拾うために海に入ったってわけ」

「あら、その女の子、すごく感謝してたでしょう」

「いや………むしろ迷惑がってたよ」

「そう……災難だったわねぇ」

「そうでもないよ?俺も一割分け前を貰ったから」


母さんはよく分からないと言うように首をかしげながらも、それ以上この話題に突っ込んでこようとはしなかった。

母さんは変わった。

いや変わろうとしてくれてるんだと思う、俺の為に。


物心ついた頃から病気と闘っていた俺は、いつも入退院の繰り返し。学校にはほとんど通ったことがなくて、この家と病院と、それ以外の世界を知らなかった。

だから、あと一年くらいしか生きられないと分かった時、俺はこのままこの狭い世界しか知らずに死ぬなんて絶対に嫌だと強く思った。

だから俺は大人たちに我儘を言って、退院して中学校に通うことを決めた。

最初は猛反対していた両親も、今は応援してくれている。

特に母さんは根っからの心配性だから、相当我慢して俺の我儘に付き合ってくれているんだと思う。




夜中の三時を回った頃、

寝苦しさに目を覚まし、水を飲みに行こうと廊下をゆっくりと歩く。すると書斎の前を通ろうとした瞬間、扉がいきなり勢いよく開き、中からずん、と父さんが出てきた。


「李紅、まだ起きてたのか」

「父さんこそ、もう1時だよ」


明日も普通に仕事があるのに。

首を傾げていると、父さんは不意に俺の額を大きな手で覆った。

また父さんの母国のドイツの推理小説でも読んでいたのだろうか、ひんやり冷たい。


「…李紅、少し熱があるみたいだな。ただでさえ免疫力が低下してるのに、春の海に飛び込んだりするからだぞ」

「あー母さんから聞いたんだろ。それより、父さん。ちょっと話があるんだけど……いい?」

「ああ、いいとも。ただし解熱剤を飲んで横になった後でな」


そう言って俺をひょいと抱えあげると、抵抗も虚しく自室のベッドへと逆戻り。まるで赤ん坊のような扱いに思わず唇を尖らせたが、ますます子供みたいですぐにやめた。


俺の父さんは身長がすごく高く、肩幅も広く、街中でも一際目立つ、まさに大男だ。

その遺伝子は一体何処へ行ったのやら。小さい頃に受けた手術の影響もあって、同世代の男子の中でも割と小柄な俺を抱えるなんて、父さんにとっては園児を抱き上げるくらい容易いことなのだろう。

子供の頃はよく「大人になったらぜったい父さんの身長を抜かす!」なんて目標を掲げてたけど、きっとそれはもう無理だろう。



「それで話ってなんだ、李紅」


そう言いながら手渡された水で薬を飲み、俺は顔だけを父さんの方へ向けてベッドに横たわった。


「あのね、ちょっと複雑な話なんだけど」

「なんだ?」

「ある、女の子がね。海に大切なものを捨てようとしたんだ」

「ほう、大切なもの?」

「うん。一般的にはすごく大切なもので、それは俺からしたら喉から手が出るほど欲しいようなもので。だから俺、そんな大切なものを捨てようとする彼女を見過ごせなくて、止めたんだ」

そんなに要らないならちょうだいよ、なんて言ったりして。


「…………でも、これで良かったのかなぁ」


後悔しているわけじゃ、ないけど。

延命治療こそ拒んだものの、俺は生きる意志が無いわけじゃない。

生きていられるものなら、生きていたい。

小さい頃から死と隣り合わせだった俺には、「死にたい」とか言う人の気持ちは微塵もわからない。

でも、それはあくまで俺の主観で。


「……よかれと思ってやったことが、反対に彼女を追い詰めていたらどうしよう」


死にたいと思うことは、きっと珍しいことではないのだろう。

そういう人達が"死ぬ"ことにどんな期待を抱いているのかは知らないけど、きっとなんの理由もなく死にたい、なんて人は居ない。みんなそれなりに深刻な理由があるはずだ。


「俺が…もう治療はしないって決めたのだって、その子がしたことと一緒だったかもしれないのに…」

俺に、桜を引き留めるだけの資格は、きっと無かった。

だって俺だって、辛いことから逃げ出したくて、自分の命に限界を決めた。


「……そうか。李紅は、治療を拒んだことを、悪いことだと思っているんだな?」


こくりと頷いた。

じっくり悩んで決めたことなのに、後悔しているわけじゃないのに。なんだか、酷く情けない気分だった。



「……李紅」



思わず目を伏せた俺に、父さんは諭すように柔らかく呟いた。



「李紅、お前はもっとお前自身に、生きた時間に、誇りを持ちなさい」


「誇り……?」


「そうだ。父さんは李紅が息子だってことが、何よりも誇りだ」


「どうして……?」


学校にもまともに通えず、手術や入退院を繰り返して莫大な費用を費やして治療を続けてきたのに、結局親より先に死んでしまうような、親不孝者なのに。


「お前は誰よりも強い子だ。いつもしっかり意思を持って、物事を決めている。治療を選択したのだって、逃げ出したわけじゃない。お前自身が、そう選択したんだ」


そう言って父さんは空色の瞳を、すっと細めて笑った。


「自分の選択を信じるんだ、李紅。その子がお前の言う通りにしてほんとによかったと思えるように、李紅が明日を創るんだ」


「……俺が?」


「そうだ。お前にはそれだけの力がある」



まるで小さい子供扱うように、父さんは俺の髪をそっと優しく撫でる。不思議と悪い気はしなかった。



───あるかな、ほんとうに?

ずっとずっと、周りに護られてばっかりで、救われてばっかりで生きてきたけど。

今度な俺が、誰かを救えるだろうか。

……桜を、救えるだろうか。



短い人生最期のその瞬間までに、俺になにができるだろう。











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