銀貨の代わりにあなたに愛を
第九章:手紙の力
事務所にやってきたアンドレの言葉を耳にすると、グランは驚きのあまりよろけてしまった。
「おおっと大丈夫ですか、ラグレーン殿!」
「そ、それはほんとうですか、アンドレ殿。嘘では……私に嘘を言っているのでは……?」
アンドレは優しい微笑みを浮かべた。
「正真正銘、父の言葉ですよ。それなので、これから私はあまりご尽力できなくなる。もちろん妹もです。あなたとアルノー君、コート君だけで商会を今の倍以上に規模を広げるのは大変でしょうが……」
「いいえ!」
グランは決意あふれる声で言った。
「全力で精進させていただきます! ……しかし私はあんな失礼な形で屋敷を後にしたというのに」
グランが首を傾げているのに、アンドレは笑った。
「あなたが父の想像と違った人間だったからですよ。いやあ、二人の会話に私も居合わせたかった」
「私こそ、できれば代わってほしいくらいでした。伯爵はやはり迫力のある方ですね……声をはっきり出せた自信はありましたが、手の震えは精一杯隠していました」
「あれでいて、娘に甘いのですよ……。とにかく、あなたはもう父に認められたも同然だ。伯爵家のためにも、もちろん妹のためにも、ぜひ頑張ってください」
アンドレがにこにこと事務所を去ったとたんに、部下二人は上司の机に駆け寄った。
「ラ、ラグレーンさん! どういうことですか、伯爵当主様となにをお話しになったんですか!?」
「商会が拡大するとどうなるのですか、ラグレーンさん!」
グランは二人に詰め寄られ、たじたじと後ずさった。
「わ、わかった、その、説明させてくれ……」
グランは頭をかき咳払いをして事務所の長椅子に二人を座らせると、事の経緯を話し始めた。
エリーゼと出会ったことでアンドレの商会に携わるようになったこと、夜会でエリーゼに救われたこと、先ほどの伯爵との会話など、である。
「……そういうわけで、商会の規模の拡大に、その……お前たち二人も協力してくれたら、ほんとうに助かるんだが」
エミールとジャスマンはぽやんと口を開けたまま上司の顔を見つめていた。グランは眉をしかめて下を向いて言った。
「まあ、これは完全に俺の私的な問題だ。お前たちはいつも通り仕事に取りかかってもらえれば、それだけでじゅうぶ……」
「ま、ま、まってください!」
ジャスマンが身を乗り出して上司の言葉を遮った。
「それでは、商会が今の倍の大きさになれば、ラグレーンさんは、伯爵家のエリーゼ様と、け、け、け……」
「け?」
ジャスマンは息を吸った。
「け、結婚できるということですか!? あのエリーゼ様と!?」
グランは目を瞬かせたが、肩をすくめた。
「まあ……仲を認めるということはそういうことだろう。相手は未婚の貴族令嬢だから、それ以外はありえない」
ジャスマンはそれをきくと、驚きの声を上げそうになり口を両手で塞ぐと、後ろの長椅子の背もたれまで下がった。
「あの……もしかして、ですけど」
続いて彼の隣で身を乗り出していたエミールが言った。
「夜会で踊ったという方、夜会で出会ったきれいで優しい女性というのは、エリーゼ様のことだったのですか……?」
グランは思い出したのか、少し照れたように頭をかいて頷いた。
「そうだな……。彼女のことをそういう存在として思うようになったのは、その夜会の時からかもしれない」
するとエミールはジャスマンと同じように、声を上げそうになった口を両手で塞ぎながら長椅子の背もたれまで下がった。
グランが、部下二人の視線がこれほどまでに痛いと感じたのは初めてだった。
「さ、さっきも言ったが、お前たちを巻き込むつもりはない。ただそういうわけだから、仕事量が増えるかもしれないという……」
「「なにを言っているんですか!」」
グランの言葉は再び身を乗り出した部下二人に遮られる。エミールが怒ったように長椅子の前の机を手の平で叩いた。
「巻き込むわけにはですって!? 僕らは完全に蚊帳の外にするつもりだったんですか!」
「そうですよ、僕らにも協力させてください! 全くラグレーンさんったら、全然教えてくれないんだから……!」
ジャスマンも息を吐きながら言い、少し考えてからこう続けた。
「……まずは、顧客の方々にお茶会でうちの茶葉をご紹介いただくようお願いしてみましょう。確かカペット夫人が近々お茶会を催すと伺いましたから、そこからですね」
「それから、新しい種類を作るのも良いかと。まだハーブを使った商品はありませんから、東方の茶師のいる中心街の事務所に行って相談してみましょうか」
グランは二人の協力的な姿勢と、すっかり商会の仕事が板についた様子に、目を見張らせていたが、下を向いて小さく「ありがとう」とつぶやいた。良い部下を持ったなと、グランはしみじみ感じていた。
「それにしても」
エミールが考え込むように言う。
「伯爵令嬢のエリーゼ様といえば、あのびっくりするくらい美しい方ですよね、面接の時に一度お会いした」
「そうだが」
エミールは眉を寄せて手に顎を当てた。
「あんなに美しい方なら、たくさんの人から声がかかるんでしょうに、なんでラグレーンさんだったのかな……」
「確かに。夜会に出ているなら、もっと条件の良い美男子が……」
そこまで言って、エミールもジャスマンもただならぬ怒りの気配にはっと口をつぐんだ。
下を向いたままのグランのこめかみがひくついている。
「……悪かったな、お前たちの上司が美男子どころか陰気な顔で」
グランの低く恐ろしい声に、エミールは慌てて言い繕おうとした。
「い、い、陰気な顔なんて、そ、そんな……!」
「に、人間は顔じゃありませんって! 中身ですよ肝心なのは!」
フォローになっていない言葉を述べる部下を、グランは恨めしそうに見ていたが、小さなため息をつくと言った。
「……俺にだってわからない。エリーゼがなぜ、俺みたいな男を選んだのかなんて、こっちがききたいくらいだ」
グランの憂いを帯びた言い方に、二人はなんとも言えず、しばらく沈黙が続いた。しかし、ジャスマンが明るい声で言った。
「それなら早く商会を拡大して、彼女に直接会ってききましょう! もうやるべきことは決まってるんですから」
「そうですよ! エリーゼ様は待っていらっしゃるのでしょう、ぼうっとしてられませんって!」
部下二人の頼もしい言葉に、グランも微笑んで頷いた。
「……そうだな。ありがとう、二人とも」


それから三人はまともな休みも取らずによく働いた。グランは自分の仕事を普段の倍以上に増やし、一週間程ほとんど寝ずに過ごしていたので、とうとう体調を崩してしまった。

「……ラグレーンさん、なにをしているんですか」
エミールは出先から事務所へ帰ってくるなり言った。上司が鼻をかみながら机で作業をしている。
「なにとは? シュトラール様の決済だが」
「いやいや、風邪をひいてるんだから寝てなきゃだめじゃないですか! ひどい鼻声ですよ!」
エミールの怒ったような口調に、グランは眉を寄せて机から顔も上げずに返す。
「この忙しい時に寝てなんぞいられるか。窓は全部開けてあるから移る心配はないぞ」
「そういう問題じゃ……。ジャスマンはどこへ?」
「シュミット様の屋敷に商品を届けに行かせた。事務所に居るとうるさくてかなわない」
エミールは呆れたような目で上司を見た。帰れと言ってもきかないんだろうな。それならばとお湯を沸かして喉や鼻に効くハーブティーを淹れた。
「せめてこれを飲みながら仕事なさってください。それから、細かい計算は僕が引き受けますから、ラグレーンさんはサインが必要な書類を優先に片付けてくださいよ」
グランは目を瞬かせたが、苦笑いを浮かべた。
「悪いな。無理はするなよ」
「それはこっちの台詞ですって……」
エミールが頭と書類を抱えながらそうつぶやいた時、事務所のドアベルが鳴り、ジャスマンが帰ってきた。
「ただいま……あっ! ラグレーンさん、まだいる! 僕が戻る前に家に帰るって約束したじゃないですか!」
「約束などしていない、お前が一方的にそう決めただけだ……おや、手紙が来ていたのか?」
グランは部下の不平そうな声に気にも止めずに、カップに口をつけながらそう言い、彼の手元に目を走らせた。ジャスマンは頷いて上司に手渡した。
「そのようです、ラグレーンさん宛てですよ。差出人は書いてありませんでしたが、封筒の紋章を見る限り……」
「ドルセット伯爵邸からじゃないですか! エリーゼ様ですよね? 絶対そうだ!」
グランの後ろから封筒を盗み見たエミールは嬉しそうに大きな声を上げた。耳元で叫ばれたグランはうるさそうに眉を寄せてエミールを睨んだが、手紙を受け取り、宛名の字体を確認するとピキリと硬直した。
「エミール」
上司の様子が急変したことに気づいたジャスマンは、同僚に目配せした。エミールも肩をすくめて上司から離れると自分の机に戻った。しかし、封を開けたグランは「エミール、ジャスマン」と二人を呼び止める。
きょとんとした二人に、彼は丁寧に折られた便箋をそれぞれ渡した。
「エリーゼから、お前たち一人ひとりにも手紙が来ている」
「「ええっ!?」」
グランの顔色を伺いながら、二人はそれぞれ手紙を受け取り中を開いた。
二人のものはほとんど同じ内容であったが、気遣いに溢れた美しい字体に、エミールもジャスマンもほうっとため息をついた。
「ラグレーンさんが無理をするといけないから、ちゃんと食事をさせて……だなんて、さすがよくわかってらっしゃるなあ」
「貴族の女性って、ほんとうに憧れますね。便箋からいい匂いが……」
グランは部下たちの様子にふんと鼻を鳴らすと、自分の席について手紙を広げた。

『グラン

お元気にしていますか。体調は崩していませんか。お願いだから、風邪をひいたときは無理をしないでちゃんと寝てくださいね。
でも、やっぱりあなたにお会いできる日が待ち遠しいわ。私はお父様から外出禁止を言い渡されているけれど、あなたは夜会でもどこへでも行けるでしょう? あなたが私を忘れてしまって、他の女性と仲良くなってしまわないかしらと考えてしまうの。おかしいわね。
グランの心が変わらないように毎日祈っています。
お仕事、がんばってね、でも決して無理はしないで。私はどこへも行かないわ。アルノーさんとコートさんにも優しくね。
それでは。

あなたを愛するエリーゼより』

読み終わると、グランは机の上の腕の中に火照った顔を埋めた。こんなに彼女を愛しいと思ったことがあっただろうか。しばらくそうしていたグランは、やがて手紙を折って胸ポケットにしまい込むと、便箋を出してなにやら書き始めた。そしてすぐに立ち上がると、はっと顔を上げた部下たちに上着を着ながら言った。
「悪いが今日は帰る。明日の朝はまた出勤する。シュトラール様の決済はしてあるから、リストに書き加えておいてくれ」
そう言って事務所を去っていった上司を見送りながら、エミールとジャスマンはぽかんとしていたが、やがて言った。
「……エリーゼ様、すごいな」
「ラグレーンさんには、エリーゼ様の言葉が一番効くんだ……。覚えておこう」

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