密偵をクビになったので元主のため料理人を目指します!
 けれど心は簡単には追いつかないのです。
 どうにか「努力はします」とだけでも返せたのは成長した証でしょうか。幸せから、一気に現実に突き落されたような気分だ。
 同じように、どんなに幸せでも終わりは訪れる。
 主様がこれから遠い地に向かうということ。その運命は変えられない。
 外から聞こえる音は別れの合図だ。

「時間のようだね」

 名残惜しむような声は、主様もこの別れを少しでも名残惜しいと感じてくれているのでしょうか。だとしたら、不謹慎ではありますが、私はとても幸せな元密偵ですね。

「ところでサリア。以前も話したと思うけど、俺はもう君の主じゃない」

 ということは、いよいよ私は主様と呼ぶことさえ出来なくなってしまうの!?
 咎められることを覚悟したけれど、私の心を救って下さったのはやはり主様だった。

「本当にわかっている? 俺はもう、ただのルイスなんだよ。ほら、名前を呼んで」

「名前!?」

「俺の名前、まさか忘れてないよね?」

「あ、当たり前です! お名前どころか生年月日にご親戚様方まで完璧に記憶して!」

「なら呼んでみて?」

「ここで、今ですか!?」

「出来ないの?」

 悲し気に微笑まれると胸が痛くなる。そのような表情をさせているのが私のせいだと思うといたたまれない。でも!

「い、いえ、そのようなことは……」

 これしきも出来ない元密偵とは思われたくはない。じぇれぢ数日前まで主だった人を相手に名前呼びは難易度が高すぎる。

「サリアは謙虚だなあ。そういえばサリア、俺の母親の名を憶えてる?」

「はい。ルナリア様です」

「俺の妹の好きな紅茶は?」

「イースリット産のものです」

「俺の好物は確か……」

「ステリナ産の苺でしたね」

「それぞれの頭文字を繋げてみてほしいんだけど」

「頭文字ですか? ル、イ……ってふざけないでくださいね!?」

 危うく主様の名が完成してしまうところでした。

「おしいな、あと一文字だったのに」

 楽しそうに笑う主様は確信犯だ。
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