寵愛紳士 ~今夜、献身的なエリート上司に迫られる~
「悪い子にはキスできないな」




午後六時。
雪乃な仕事を終え、会社を出た。

事前に今日は残業になると晴久から聞いており、一応スマホを確認する。

【ごめん。やっぱり今日は遅くなるから、先に帰ってて】と念を押すメッセージがきていた。

(今日はひとりかぁ)

無意識にため息が出た。
一緒に帰るのが当たり前になっていたが、ときどきこうして課長と平社員の差を思い知るのだ。

(マスクつけて帰ろうかな……)

鞄の中の眼鏡とマスクに触れ、しばらくエントランスの外で悩んでいた。

もうこれはつけないと決意したばかりだが、やはりひとりで外を歩くとなれば男性から素顔を隠さねばならない。

どうしたものかと立ち尽くしていると、会社の中からひとりの男性社員が出てきて、エントランスの雪乃に話しかけた。

「ねえ。細川さん、だよね?」

馴れ馴れしい声と肩に置かれた手にビクンと体が跳ね、「ヒッ」と小さな悲鳴をもらして振り返る。

そこには、晴久と同じくらい背の高い男が立っていた。

八重歯を見せて「驚きすぎ」と笑っているその男をまったく知らない雪乃は「えっあのっ」と取り乱すが、男は構わず喋り続ける。

「突然ごめんね。俺は営業部の伊川っていうんだけど、ちょっといいかな」

「……営業部?」

(営業部なら、晴久さんの知り合いかな?)

そう思うと雪乃はほんの少し安堵した。眼鏡とマスクのセットを鞄に戻し、姿勢を正す。

「はい。なんでしょうか」

「細川さんって、高杉課長の彼女なんだよね?」

「えっ……」

またこの手の話か、と嫌な予感がし、一歩後退る。女性社員に問い詰められるのは慣れたが男性からは直接聞かれるのは初めてで、鞄の持ち手をギュッと握り身構えた。
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