十六夜月と美しい青色

お煎茶と生姜せんべい

 結花の朝は、事務所に入ると先ず美味しいコーヒーをスタッフに淹れる事から始まる。ハンドドリップだったり、マシーンで淹れたり。その日の気分で楽しんでいる。スタッフと言っても、兄の柊吾と経理の康子さんだけの少数精鋭の事務所だった。

 経理の橘高康子さんは、御年、還暦の少し手前で柊吾や結花が産まれたころからここで働いていて、仕事で忙しい母の代わりもしてくれたこともあり、二人が唯一頭の上がらない存在だ。だから、ここのお店のことは何でも知っていて、ある意味、藤沢茶舗の生き字引のような人だ。

 藤沢茶舗は、2階が事務所を兼ねている昔ながらの店舗で、商店街の通りに面していて木造の古風な町家づくりが結花は気に入っていた。

 柊吾が、結花の淹れたコーヒーを片手に話しかけてきた。見かけによらず甘党で、砂糖とミルクは絶対入れないと飲まない。コーヒーの苦味と酸味がダメらしいが、それが美味しいのにと思う。小豆の餡がたっぷりの和菓子も、クリームたっぷりのケーキにも目がなくて、甘いことが一番のよう柊吾だ。そのくせ、無駄な贅肉がなく体型だけは維持しているのは立派だけど。

 「今度の日曜日、カフェの方にヘルプで入れるか?店長の柳田から、年末商戦で来店客も多いから手が足りてないらしくてヘルプの要請があった。凌駕とのことがあったし、暫くはお前を行かせたくはなかったんだけど、店の方もどうにもならなくてな。紅梅屋の配達もあるから顔を会わせることがあるかもしれないけど無理が言えるか?」

 結花は、一瞬だけ考えてしまった。あれから、凌駕とは一度も顔を合わせることはなく、一見して平穏な日常が戻っているようにも見えていた。

 「それはしょうがないわ。日曜日、オープンに合わせて入ればいい?」

 「ああ、悪いな。柳田には俺から連絡しておくから。あと、親父が話があるみたいだ。いま店の方へ居るから」

 「うん、わかった」

 「それと、最近何かあったのか?梅崎と。凌駕のことがあった後から何度か連絡してききて、お前の様子ばかり聞いてくるんだよ。アイツ、昔からお前のことが好きだったから、破談になったからって、もし梅崎と変なことになって困っているんだったら早く言えよ」

 「えっ、そうなの?べ、別に困ることなんて何もないけど…。そもそも、会うこともないし」

 朝から、鳩が豆鉄砲を食ったような気分になった。あっけにとられて返事をすると、柊吾が意外そうな顔をした。

 「あれ?知らなかったのか?まあ、あの見た目だから周りの女がほっとかないからなあ。学生の頃は、わりと一途にお前のことを好きだったみたいだぞ。今は、どうだか知らないがな」

 そう言うと、柊吾は飲み干したコーヒーカップを結花のデスクの上に置いて、鞄を持つと行ってきますと言って営業に出た。いつも営業に出るのはもう少し後なのに、何かあったのだろうかと心配になってきた。
 
 「柊吾が、こんなに早く営業に出るなんて珍しいね。それに、お父さんも何の話だろう。康子さん、ちょっと店に降りて来るね」

 そそくさと、階下へ降りて行った。

 でも、和人が昔から好きだったなんて、あの時だって、そんなこと一言もなかったはず。一目惚れしたみたいなことしか言ってなかったような…。柊吾ったら、朝から心拍数が上がるようなことを言わないで欲しいと思いながら、珍しく、結花は、気持ちが高揚しているのに気づいた。
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