花筏に沈む恋とぬいぐるみ
3話「宝石の瞳」




   3話「宝石の瞳」




 「そういえば、あの人の名前も知らない………。私、何やってるんだろう」


 花は、名前も知らない男の家の湯舟につかりながら、一人呟く。
 お風呂場独特の声の響きはどこの家も同じなんだな、と当たり前な事を考えながら体を温める。自分で思っていた以上に体は冷え切っていたようで、しばらくの間首まで湯舟につかってもなかな体がカタカタと震えていた。肌が痺れる感覚さえある。あの男が外で待っていると思うと申し訳ないとは思いつつも、体がお湯を求めており、なかなか湯船から出れない。
 少し遅くなってしまう事は諦めて、花はふーっと大きく息を吐いた。あの人が突然川にテディベアを落とさなければ、こんな事にはならなかったのだ。少し外で待ってもらっていいか、と思うようにして、しばらく名前も知らない男の家のお風呂時間を堪能するのとにしたのだった。



 「お、お待たせしました」
 「あ、おかえりー。体あったまったかな?」
 「おかげさまで」
 「洋服はやっぱり大きかったよね。君の洋服乾かさないとね」


 外で待たされていた事を全く気にした様子も見せずに、花が玄関から顔を出すと微笑みながら立ち上がった。
 男は玄関に、テディベアを抱きしめながらボーっと座っていたようだ。成人男性がぬいぐるみを抱いて玄関に座り込んでいるなど通りがかった人は驚いただろうな、と花は思った。いや、もしかしたら近所では彼は有名なのではないか。橋の上からくまのぬいぐるみを落とすぐらいなのだから。そこまで自分勝手に考えながらも妙に納得してしまう。


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