海老蟹の夏休み
時を超えて
「高3の夏休み、僕はなにもかもが嫌になって、塾をサボったことがある。そして、鬱屈とした気分を抱え、あてどなく街を歩き回り、いつしかここに辿り着いていた」
 沢木は地面を指差して言った。つまり、穂菜山ということだ。
「ほんとに?」
 信じられない顔の朋絵に、彼は笑みを返す。眼鏡の奥の瞳に、嘘は見当たらない。

「僕は地元の人間で、穂菜山は子どもの頃からの遊び場だった。鬼ごっこにかくれんぼ、虫捕りも、ザリガニ釣りもしたもんだ」
「ザリガニ釣り……」

「そう。僕もね、ザリガニが大好きで、今では彼らの研究がライフワークになってるほど。色も形も、生態も、どれをとっても魅力に満ちた生きものだと思う。ザリガニの別名で海老蟹(えびがに)っていうのがある。海老と蟹だなんて贅沢な名前だが、僕にとってはそれにじゅうぶん見合う存在価値なんだ。それより知ってるか? 世界中に散らばる彼らの仲間を。僕の最高のお気に入りは、なんと言っても、Cambaroides japonicus いわゆるニホンザリガニだな。個体によって様々だが、同種の中では最も美しい姿であり、体色だと思ってる。あと、面白いところでは、単為生殖するマーブルクレイフィッシュ。メス一匹でどんどん増えるから、ミステリークレイフィッシュとも呼ばれてるんだ。それから、なんと体長70㎝超え世界最大のタスマニアオオザリガニ、それから……」

 沢木はハッとして口を塞いだ。
 暗くてわかりにくいが、おそらく彼は今、真っ赤になっているだろう。
 朋絵は急に、彼が同い年の男の子になった気がした。

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