氷の卵

不思議な人

そんな毎日を過ごしていた、ある日のこと。

もう辺りはとっぷりと暮れていたので、店を畳み、店の奥にある自室に戻ろうとしていた時だった。

遠くから、革靴のような足音が聞こえた。
なんだかすごく急いでいるみたいだ。
その足音がこちらに向かっている気がして、私は少し気になり、店に留まっていた。


案の定、足音はどんどん近付いてきて、店の前で止まった。

もう鍵を閉めてしまったガラスのドアを、横に引こうとする。


「すみません。どなたか、いらっしゃいませんか?」


その声は、あまりにも切実で、胸が苦しくなった。

すぐに店の電灯をつける。
ガラスの向こうで安堵の表情を見せる、男性と目が合った。

彼は私より少し年上に見えた。

きっちりしたスーツに革靴。
とても真面目そうで、それでいてその安堵の表情は、どことなく頼りなかった。

私は店の鍵を内側から開けた。


「何か?」

「ああ、良かった。……良かった。」


安心しきった表情で、男性は肩で息をついた。


「花束を……届けていただきたいのです。」

「いつ、ですか?」

「今日の……日付が変わる前に。」


私は時計を見た。8時を少し過ぎたところだ。


「でも、こんな時間にお届けしたら、迷惑なのでは。」

「いえ、大丈夫です。……待ってるから。きっと。」


なにかよほどの事情があるのだろう。
私は少し微笑むと、黙ってうなずいた。


「どのような花束ですか?」

「僕は、全くお花のことは知らないので、何か綺麗な花束なら……」

「あの、本当は、注文されたお花を翌日業者に頼んで届けてもらって、花束をつくるんです。だから、残った花し
かないのですが。」

「それでいいです。残り物には福があるといいますからね。」


いたずらっぽく微笑む彼が、なんだかキラキラして見えた。


「では、作りますので、そこにかけてお待ちください。」

「はい。」

「あと、お届け先の住所と、お名前、それから送り主のお名前をこちらの紙に。」

「あの……」

「はい。」

「送り主の名前は書かなくてもいいですか?」

「え?」

「無記名で、贈ってほしいんです。」

「分かりました。」


私は深くうなずいた。


なんだか少し、こんな遅くに男性が必死にやってきた意味が分かった気がした。
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