チョコレートコスモス・アイズ
「涼くん」


キッカが呼んだ。それは、カーテンの隙間から射し込む朝日を思わせるようなぬくもりを含んだ声だった。そして、キッカが初めて涼を名前で呼んだ瞬間だった。


「ありがとう。あなたの気持ち、とっても嬉しいわ。私にも、少しお話させてね」


キッカは、宿題のノートを床に置き、踊り場の階段に座った。スカートがめくれないように、さりげなくポケットからハンカチを出して膝にかける仕草が優雅だった。涼もキッカの横に座った。


「私は確かに結婚するわ。でも、その相手は好きな人じゃなくて、昔のバイト先のお客だった人なのよ。私の父は、私が大学生の頃に、交通事故で亡くなったのだけど、大黒柱の父がいなくなって、私は大学どころか家族のためにバイトをする日々だったのよ。お金を少しでも稼ぐために、水商売で働いたりもしたわ。私の夫になる人は、その時のお客よ。私が教師をやっていると知るや、突然やって来て、私の過去を言いふらすって脅してきて……悩んだ挙げ句、まだ将来のある弟や妹たちのために、スキャンダルは避けたいから、相手の望み通りに結婚して、専業主婦になることにしたの。だから、私の望んだ結婚じゃないってことを、あなたには分かっていてほしいのよ」


彼女は、涙をそっと手でぬぐった。よく見ると、目のふちが切れて、血が少し流れている。このことのために、キッカは血の涙を流していたのか……。涼は、キッカの目もとに指を伸ばして、血をぬぐった。


「俺と逃げようよ。俺、キッカをずっと大切にするから。誰も知らないところに、一緒に行こう」

「……ありがとう」


キッカはうつむいたまま言ったが、やがて思い出したように顔を上げて、宿題のノートの山に手を伸ばし、涼のノートを引っ張り出した。


「これ、家で見てちょうだい」


「どうして」


「どうしても」


「わかった」


涼はノートを受け取った。キッカはほっと息をついて立ち上がった。


「さあ、授業に戻って。私も職員室に戻らなきゃ。それから涼くん、私じゃなくて高柳さんを幸せにしてあげなさい。あの子には将来があるわ」


「キッカ」


涼は、どうしても知りたかったことを、はにかみながらキッカに聞いた。


「俺が、女じゃなかったら、好きになってくれていた?」


キッカは踊り場の上に取り付けられた、採光のための小窓から、光があふれてくるのを見つめながら、ささやくように答えた。


「涼くんが、女性でも、男性でも、こんな私を好きになってくれた光よ。闇の結婚より、私は光を選ぶわ」
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