りんどう珈琲丸
「マスターはここをはじめる前に、なんの仕事をしていたの?」
 仕事が終わってマスターの淹れてくれた珈琲を飲みながら、わたしはカウンターに座ってマスターに聞いてみる。マスターはいつも通り、のんびりあと片付けをしながらビールを飲んでいる。
「ふつうの会社の、ふつうのサラリーマンだよ。前にも言ったろ?」
「うん、言ったけど。サラリーマンにもいろいろあるよ」
「ああそうだな」
「あんまり話したくない?」
「落ちこぼれだからな」
 マスターは無言で少しだけ唇をゆがめて笑う。それはマスターが困ったときの癖だ。わたしはもうそれ以上その話をしないようにしようと思う。とても知りたいけれど、マスターが話したくないことは聞きたくない。人には誰でも話したくないことのひとつやふたつある。わたしはそのことをマスターから教えてもらったような気がする。わたしは話題を変える。
「ねえマスター、今日はお店、ずっと日本の人のレコードだったね」
「ああ。曽我部恵一って人だ」
「おもしろい名前だね」
「ひいが生まれた頃、サニーデイ・サービスっていうバンドで歌ってた。俺がちょうど会社に就職した頃だ」
「そっか。なんだかとても素敵だった。その人の静かな歌で、今日1日」
「ああ。ときどきそういう歌を歌ってくれる。今日はいい1日だったなって思えるような、ふつうの歌をね。いろんな人がいろんなことを歌うけど、そんなふうにふつうの1日のことを肯定してくれるような歌を歌える人は少ない」
「そうなんだね」
「ああ。毎日なんてそんなにドラマチックじゃない」
 
 わたしはアルバイトが終わると、家に帰る前に竹岡の駅に寄ってみる。りんどう珈琲から竹岡の駅までは歩いても5分くらいだ。内房線の竹岡の駅は無人駅だ。わたしは自転車を止めて、ホームに出てみる。時刻表を見ると、さっき8時24分の千葉行きが出たばかりのようだった。次の電車は9時40分。そのあとの10時33分が最終だ。わたしは誰もいない真っ暗のホームのベンチに座って、線路をじっと眺める。この線路の先に千葉駅があって、そこで乗り換えて東京に着くまで2時間半くらいだ。12月の駅のホームは風が吹き抜けて寒い。わたしはここで電車から降りて、ここから電車に乗って帰って行ったあのきれいな女性のことを考える。

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