バターリッチ・フィアンセ
まさか、ここを逃げ出した……?
そう思って玄関の靴を見ると、織絵の靴が一足ない。
だけどなくなっているのは彼女がもともと履いていたパンプスではなくて、仕事で使っている運動靴の方。
「なんで……」
理由はわからないが、織絵がいるのは店の厨房なんじゃないかと思った。
まだ仕込には早いし、俺がいない間に彼女一人でできることなんて、限られているのに。
わけのわからぬまま一階に降りてみると、やはり厨房の方からは明かりが漏れていて、かすかな物音も聞こえる。
扉をそっと押して中に入って見ると、織絵はなぜか作業台に向かって、小麦粉をこねていた。
「…………何してんの」
びくっと肩を震わせた織絵が、ゆっくりこちらを振り返る。
「昴さん……あの、これは……」
無言でその手元を覗き込むと、全くまとまりのないパン生地のようなものが、織絵の手と台にベタベタと張り付いている。
「……大事な材料で遊ぶなよ」
無愛想にそう言うと、織絵の目が一気に潤んでくる。
――もう一度、“鬼”に。
さっき自分の中でそう決めたことが揺らがないように彼女から目を逸らすと、織絵は震える声で言う。
「ごめんなさい……でも、何かお手伝いしたくて……」