その輝きに口づけを
2 うろたえる王子様
「――やけん、初めてやって言うたろーもん!!」
「青さん?!」
顔面に直撃した枕の衝撃をやり過ごして彼女の方に目を向けると、睨みつけた目の奥から、こらえきれなかった涙が次々と流れ落ちていた。
一瞬で肝が冷えた。
「慣れた人が良ければ、いくらでもおるやろ?!どうせ感度もないよ!なら、なんで、わたしに、こんな――」
正直に言うと、この時ぼくは彼女の言葉の意味が全く分からなかったのだが、情けないことに彼女の涙にすっかり慌ててしまっていたため、ただ謝ることしかできなかった。
「ごめん、ごめん青さん」
完全にうろたえたぼくは、彼女を抱きしめようとしてためらい、右往左往したあげくに指で彼女の涙をぬぐった。次々と零れ落ちるその滴を懸命にぬぐっていると、思いのほか静かで落ち着いた声が、青さんの口から流れ出た。
「……何言ってるんだろ、わたし」
けれど冷静な声に反して、伏せられた睫毛から覗く彼女の瞳は、今までに見たことがないほど悲しげな表情で揺れていた。
「ごめん、やっぱりどう考えてもわたしも不用意だった。筧君のせいだけにするつもりなんてないから安心して」
そういって、ふっと笑う。悲しげだった表情が、その瞬間にきれいにぬぐい去られていた。でもその名残が、笑った拍子に一粒、下睫毛からこぼれ落ちた。
「だまされた。筧君ってちっとも草食系やないのね。白状すると、君なら安全だろうって、わたしに何かするようなこともないだろうって、思ってたのよ」
「……いつもはもっと紳士的だよ。信じてもらうのは難しいだろうけどさ」
それを聞いて、青さんは困ったように笑う。
「まあ、何にせよ、女の子にはもっと優しく接してあげなさいよ。君おっきいから、優しい子だって分かってても、――やっぱりこういう場面ではすくんじゃうんからさ」
その他人事のようなセリフに、今度こそ正真正銘、ざあっと音を立てて血の気が引いた。
「青さん、それってどういう意味?」
ぼくの取り巻く空気が変わったことを察したのだろう。青さんの肩に少し力が入る。でも今は構っていられない。
「ぼくが他の子と付き合うと思ってるの。青さんとこういうことになったのに?」
ねえ、青さん、とぼくは低くささやいた。
「ぼくはもう、あなたを逃すつもりはないんだけど」
後から振り返って考えてみれば、救いようのない、ストーカーのセリフ。でもこの時、ぼくは心から本気で、切羽詰まった思いだったのだ。ところが、ぼくは次の青さんのセリフによって、さらに地面にたたきつけられることになる。
「逃すつもりないって……筧君、わたしとまだ会うつもりがあるの?」
「もう会わないつもりだったの?!」
青さんと会えない、という可能性を示されて、驚きと喪失感のあまり声を失って呆然とするぼくに、さらに輪をかけて唖然とした表情の青さんが言う。
「え、だって男性って付き合う前にその……なんというか、ま、枕を共にする?と友人としての興味も失って連絡が途絶えるって」
女性誌に書いてあった……ともごもごと気まずそうに口を動かす。この人はいったいどれだけ女性誌を絶対視しているんだ。バイブルか?聖書なのか?だいたい、こんな寸止めでは飽きるどころか興味をかきたてられるばかりだということが分からないとか、どんだけ世間知らずだ。
ぼくはふっと息を吐いて覚悟を決めた。この女性を手に入れるための道はまだ閉ざされていない。どうしても彼女がほしい。――ここが正念場だと思った。
「ねえ、青さん。ぼくは青さんといるのが好きだったんだ。今だから言うけど、付き合ってた彼女よりも青さんとの約束を優先させたこともあったよ。一緒にいてほっとできて、元気になれて、なんか、しんどい時にまた会いたいなあと思う相手はいつも青さんだった」
「筧君……」
「青さんがおれのこと男として見てないって分かってたから、そのつもりで接していたけど――でも、でも青さんが女性だと意識したらなんかもう、一瞬で根こそぎ持って行かれた上に独占欲とか湧いてきちゃって――ああ、うまく言えないけど、つまり、その青さん」
だんだんぐだぐだになっていく自分の言葉にあせりながら、ぼくはなんとか言葉を紡いだ。
「一生のお願いだから、おれのものになってよ!他の男の気を引くための服装なんか考えないで。簡単にナンパなんかされるなよ」
我ながら、情けない告白だと思うが超本心だ。どれほど本気なのかを伝えたくて必死に彼女を見つめた。情事のあとを色濃く残した赤い頬と瞳、そして唇。艶のある肩を滑り、形のいい胸を隠すように流れる髪。くらくらするほど色っぽくて、そして誰よりもかわいいこの人に、もう触れられないのかもしれないと思うとぞっとする。――そして。
この人のこの姿を、他の男が目にし、その手に触れるかもしれない。その当たり前におこり得る想像に一瞬にして胸を焼かれた。息が苦しくなって、すがるようにその髪をひと房手に掴み、自分の唇に押し当てた。ぼくが手を伸ばした瞬間、かすかに身を震わせた青さん。彼女を傷つけてしまったことへ心の痛みと、ぼくを傷つけないために恐怖を表に出さないよう平静を装う彼女へ募る愛おしさに、ぼくはぎゅうっと目を閉じた。
ほんの少しの間、沈黙が流れた。その沈黙にすくむぼくをしり目に、彼女はおもむろに、シーツで自分の身体をすっぽり覆い隠すと、初めて自分から身を寄せて、ぼくの胸に頬を押し当てた。
驚きに固まるぼくを上目遣いに見上げて、青さんがぷくっと口を膨らませて言った。
「映画見て、ご飯食べて、たくさんお話して、一緒に。たくさん一緒に時間を過ごして。まずは、それから」
期待に、ぼくの心拍数が徐々に上がっていく。
「――それから次に、キスの仕方を教えてよ」
手を伸ばして叶うなら、わたしだって君がほしい。青さんのつぶやきは、残念ながら幸福に頭のねじを飛ばしていたぼくの耳には届かなかった
※※※
「それはだめやろ!」
ぼくは目の前で固まる妙齢の女性に向かってつかつかと歩み寄りながら呻いた。
「白衣ってだけでエロいのに。チャックはもっと閉めて!サイズはもっと大きめなのないの?なにはともあれそんなに胸を強調するなよ」
言いながら、今しがた書き上げたカルテを差し出す。そういやカルテってドイツ語だったよね。医学はオランダだというイメージだったんだけどな。ただオランダ語だと今頃はカルテのことカルタカルタって呼んでたかもしれないと思うと、何か間抜けだ。
そんなぼくの意見に「そうかもね」と気のない返事をして、女性――青木光は呆れた表情で口を開いた。
「……筧君、何やってるのよ」
「いやあ、青さんの働いているところ見てみたくて」
『ラブラブか!』
「美貴さん、南ちゃんまで……」
カーテンの向こうから入った、息の合った2人の突っ込みに、青さんが赤くなってあわてる。
「だいたいさあ。君、光ちゃんが胸出すことに始め賛成してたんでしょう?彼女になった途端出すなとか、どうなのそれ?」
美貴の遠慮ない言葉に、南が淡々と返す。
「いやあ、男ってそんなもんなんじゃないすか」
「待って待って、何で二人ともそんなに冷静なの。新患の「カケイさん」が彼のことだって、二人とも知ってたんですか?」
「だってその子、『青さんにお願いしたいんですけど。ぼくは、その、彼女の知り合いで』とか超照れながら予約してくるんだもん。分かるわよ」
「ええ、わかりますよ」
「それなら教えておいてくださいよ!何でわたしだけ知らなかったんですか?」
「あえて言わない方が面白そうだったんで」
南がにこっと笑顔で淡々と答える。
「あーあ、いいなあラブラブ。わたしもあっまーい恋人ほしい!光ちゃんの恋人がこんなにハンサムでかわいいなんて聞いてない!」
「そうっすよ。ちゃんと出会い編・再会編・接近編・完結編と起床転結つけて説明してください。美貴さん、飲み行きましょう、今日」
「再会編って言われても、ねえ」
「接近編……接近ってあれを話すの?」
ぼくと青さんは何とも複雑な表情で顔を見合わせた。その困った顔に煽られて無意識に彼女に向かって伸ばした手が、思いのほか強い力で掴まれたと思った瞬間、ぼくの世界は反転していた。
今思い出したけど青さんって、強いんだよなあ。
ほれぼれするほど痛みなく、きれいに技をかけられながら、ぼくは思った。
その青さんが黙ってぼくに触らせた時点で、ちょっとはぼくを受け入れていた証拠なんじゃないかなあと、遅ればせながらぼくは思い至ったのだった。