その消しゴム1mmに誓って
始まりの季節
 体育倉庫に鈍い音が響く。埃っぽい空間には小さな窓から照らされた気持ち良い陽の光と、それを背に受ける二人の人影があった。一人は狭い部屋で這いずるまわり、一人はそれを角に追いやるように迫行く。ライオンに捕まったシマウマはただ声をあげるしかできず、ただただ痛みに耐えていた。噛みつきはしないが体力と精神力をえぐるように殴り、蹴り、吠る。捕食ではない趣味の悪い遊び。ただの道楽。弱者はひたすらに耐える。知っているのだ、これに終わりがあるようでないことを。

 桜が舞うある春の日、それは突然にやってきた。新年度が始まり新たな気持ちで切ったスタート、毎年恒例「自己目標」を作成する。教師の言葉を聞き流し、光希はシャーペンを握る。光希はこの時間が嫌いだ。皆同じことを書き、誰も守らない目標など意味をなさないから。そして何より皆の中に自分も入っているから。思えばもう中学も最後の年。何も考えず手を動かす。
「高校入試に力を入れる……これでいいか」
こんなもの自己目標というより自己満足だった。思った通り周りの人間もまた、光希と同じような考えをしていたようで。そんなときだった。
「なあ、光希。消しゴム貸してくれないか」
左隣の男子生徒に声をかけられた。光希の体が一瞬震えた。ちゃんと名前を呼ばれたのは久し振りなような気がした。
「僕のでいいなら。はい」
ゆっくり筆箱から消しゴムを取り出し差し伸べられた手の上に預けた。
「マジサンキューな。消しゴム忘れるとは思わなかったから」
ニコッと笑って見せた男子は口を止めることなくささッと消しゴムを使い、光希の元へ返してきた。
「ありがとな。このご恩は一生忘れません!」
手を合わせるようにして礼を言うと、クラスの会話の中へ紛れてしまった。
 光希はこの隣人、藤川拓真が苦手だった。中学入学時から同じクラスではあったが誰にも分け隔て無く優しくて、クラスの人気者で、たくさんの友達がいる。光希にとって憧れであるような、全く別の世界の住人であった。そんな彼が何故自分に?そう考え出すとその時間の授業の学活は自分でも驚くほど頭に入ってこなかった。

 「光希ぃぃ!」
教室内に怒声が鳴り響く。もう昼の時間か。小さく呟くと声の主の元へと近づく。足取りは重いがきちんと目的地に出向いてしまう自分の体を憎みながら一人の生徒の前で硬直する。
「なに、宇川君」
「飯、食いにいこうぜ」
宇川の表情はとても見ていられるものではなく。有無をいう暇もなくどでかい体で腕を組み、大股で教室を出て行く。歩幅が合わない光希の体は無意味に動き、揺れる。弁当の心配はしなくとも良い。なぜなら弁当を持たずに飯、食いに行こうとしているのだから。

 体育倉庫に鈍い音が響く。埃っぽい空間には小さな窓から照らされた気持ち良い陽の光と、それを背に受ける二人の人影があった。一人は狭い部屋で這いずるまわり、一人はそれを角に追いやるように迫行く。ライオンに捕まったシマウマはただ声をあげるしかできず、ただただ痛みに耐えていた。噛みつきはしないが体力と精神力をえぐるように殴り、蹴り、吠る。捕食ではない趣味の悪い遊び。ただの道楽。弱者はひたすらに耐える。知っているのだ、これに終わりがあるようでないことを。いじめなんて対したことない。光希はそう思っている。中学に入ってから今まで、少なくとも死んではいない。痛そうにしていれば満足してもらえるし、満足してもらえれば解放される。気付いてしまえばこっちのものだ。いじめにも免疫があること。

 今日の運勢は最悪らしい。光希の体の衝撃はなくなることを知らないかのように受け入れ続けている。弁当、食べる時間あるかな。しょうもない事を考えながら静かに目を閉じることにした。その時だった。
「いじめとか、マジかっこ悪いぞ」
体育倉庫の扉がゆっくり開きながらもう一つの人影が足音を立てる。
「宇川、やめとけって」
「なんで拓真がこいつ助けようとするんだよ。何、貸しでも作る気かよ」
宇川の表情が驚きから笑みへと帰る。
「貸しのつもりなんてない。俺が助けたいと思ったからここに居るだけだ」
「ってことはだ。お前は今までの二年間、光希がこうなってんのに助けようと思わなかったわけだ」
数秒の沈黙が三人にとってはとても長い気まずい時間となった。
「……まあそういうわけだな」
拓真が呟くように口からこぼすと空間が一気に解放された。
「だったらここに来なくていいから!僕のことなんて放っておいてよ。助けてなんて一言も言ってないんだから。」
しびれを切らした光希が感情に身を任せ座り込んだまま叫ぶ。
「でも今日からは俺、光希の事守りたいから」
目をガッと見開き宇川と光希を睨みつけると光希の腕を掴んで無理矢理体育倉庫から立ち去る。二人の間に自分の意思を伝える言葉はうまれなかった。

 「なんでこんなことするのさ!」
光希が心の底から叫んだ。昼休みで騒がしい教室でこの声が届いたのは拓真にだけだった。
「言ったじゃん。守りたいんだ」
「中一の時からクラス一緒だったし知ってたんでしょ。いじめられてるの。守るって言ったって今更だよ」
今度は落ち着いた口調で言う。光希の瞳は拓真を写さない。
「正直、あの時は守ろうなんて思ってなかった。でも守る理由、できたから」
「宇川の言うとおり僕に貸し作って服従でもさせるつもり?僕は助けてなんて言ってない」
「借りがあるのはこっちのほうだろ。消しゴム、貸してくれてありがとう」
光希の表情にあわないように拓真はにっこり笑った。
「は」
光希は眉をひそめ、拓真の説明を欲するように下から見上げる。
「消しゴム、多分1mmくらい使ったと思うな。だから、俺消しゴム1mm分光希の力になりたい。っていうか友達になりたい!」
光希は拓真のわけのわからない言い分に呆れた。少しため息をつき、今日は早退するかな。と呟く。

 太陽が真上にある中の帰り道は心地よかった。自分自身に許された数少ない自由のようで。拓真のことなんて家に着いた頃にはほとんど考えていなかった。これから光希の生活が拓真一色に染め上げられることなんて全く思いもしなかった。
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