そのとき僕は


 また強く風が吹いて、終わることのない桜の花びらの雨が降り注ぐ。

 さわさわと音を立てて、まるで世界中に散らばっていくようだった。

 口の中に入らないようにとしっかりと口を結んで、僕は空を見上げた。

 青空がこんなにピンクに埋まるなんて。まるで何かの魔法みたいだ。

 だけどいつまでも幻想の世界にいるわけにはいかない。

 僕は鞄を背負い直して前を向く。

 そろそろバイトに行かなくては。今日はきっと忙しいはずだ。だって金曜日だし、春の歓送迎会とかもあるだろうし。そういえば店長は予約がいくつか入ってるって言ってた。だからきっと目が回るような忙しさだろう。だったら少しでも早く入って、準備を万全にしていたほうがいい。


 しばらく歩いたところでチラリと後ろを降り返る。

 今は遠くなったその一本の桜だけが咲く場所、そこにはまだ、あの人の姿があった。

 頭から被ったらしいポンチョが揺れて、その下からはブカブカのジーンズが見えている。短い髪も風に揺れて、彼女は桜の木を下から見上げているようだった。

 ―――――――――変な人。


 僕は歩き出す。

 もう、振り返らなかった。




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