彼方の蒼
 倉井先生はこめかみを押さえて、ためいきをついた。
 椅子にもたれかかった格好で、いつものように、丁寧語で答えた。
「そういうことをさらっと言わないでください。いざというときのために、とっておきのせりふとして、とっておいてください」

「あ、先生。今のシャレですか? 『とっておき』を『とっておく』って、わざと言いました?」
「違います。問題をすり替えないでください。あのね、渡辺くん」
 引きずるようにして、名画を作者(僕だ)に見せる。
 指を折って確認しながら、僕はつぶやいた。呪文のように。 
「夜の海と風と空を泳ぐ魚に光る星」
「それがどうして作品名『倉井』になるんですか? 倉井って、私の名前でしょう?」
「そう」
 好きだからに決まっている。生徒の言うことを少しは信じてよ、先生。
 僕は本当にあなたのことが好きなんだよ。17回くらい言葉にしているのにな。

「内申点を良くしてもらおうっていうんじゃないよ。美術の成績はずっと5だったし、英語が2なのも、どうしようもないし」
「2なの? そう。もっと努力してください」
「じゃなくって」
 
 僕はちょっと考えた。というか、迷ったふりをした。
 目測の距離を頼りに、倉井先生に顔を近づける。ほのかに香るフローラル系の香水。
「——なんで1年3組相原知也のクロッキー帳にキスしなきゃならないんだ」
 すんでのところで阻まれてしまった。デスクの課題の山から引っ張り出されたクロッキー帳。くそ。
 倉井先生はくすくす笑いながら、
「中学生の性欲につきあっていられません」
と、いつものようにかるーくかわすのだった。


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