彼方の蒼
2.ネクタイがベッドのうえに落ちてる
 毛布がするすると肌をこする、慣れない感触で我にかえった。
 どうしたんだっけ、と思ったのはほんの一瞬で、次の瞬間には僕がしたことをはっきりと認めた。
 倉井先生と寝たあと、少し眠ってしまったようだ。だいたい、その行為自体が夢のような出来事で、現実感が希薄だった。
 自分のものではないベッドで、肘を突いて半身を起こした。暖房が効いているから、裸でも寒くない。
「先生?」
 テレビもステレオもついていない、音のない部屋のなか、倉井先生は不自然なくらい部屋の隅っこで僕に背を向ける形で座っていた。
 俯いて肩を細かく震わせていた。泣いているのかもしれなかったし、それは僕のせいかもしれなかった。
 僕はわりと落ちついていた。ベッドの近くに落ちている衣服を拾い、手早く身につけた。
「先生。倉井先生」
 返事をしてもらえなかった。怒らせたのだろうか。
 感情らしい感情を表に出さない人でも、強引に抱かれたりしたらやっぱりショックなのかもしれない。
 できるだけ足音を忍ばせて、顔を覗き込むようにまわりこんだ。

「返事してよ。頼むよ」

『どうしたらいいかわからない』というよりは、『どうしてあげたらいいか』わからなかった。
 無性に力になりたかった。
 僕にできること。
 僕ができること。
 僕にしかできないこと。

 ——って、僕が原因で泣かしたんだけどさ。
 ああもう、認めるよ。

 僕は倉井先生のそばを離れ、冷蔵庫を開けた。
 納豆は、今はただの納豆でしかなかった。
 特別な感慨もない。

「うどんなら、食えるよね?」

 とりあえず、なんか食おう。
 うどんなら、僕でも作れる。
 かつお節でだしを取って、濃縮の麺つゆとあわせて、うどんを茹でて、卵ふたつ落として、かまぼこのっけて。

「せんせ。できたよ。食うだろ?」

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