彼方の蒼
 1月の深夜、寒空の下、どれだけ長い時間そうしていただろう……。
 僕はじっとしていた。
 腕のなかの母の呼吸が落ちつくまで待って、
「ごめん」
と、ただそれだけ言った。
 再び母は泣き出した。
「あんたは悪くないよぉぉ」
 向かいの家のおばさんが窓の隙間からこっちを窺っているのが見えた。  
 僕は小さい子をあやすみたいに母をなだめて、震えるその肩に自分のコートをかけてあげた。

 家に入って玄関の鍵を閉め、壁の時計を見ると、午前1時すぎだった。
 倉井先生のアパートですごした時間は全くわからなかった——僕が時計を見ないようにしていたから。
 そんなことを思いながら、母を風呂場まで連れていった。

「もうどこにも行かないで」

 ひとまわりもふたまわりも小さく見える母。
 このときばかりはいつもの軽口をたたくことはできず、僕は母の言葉をそのまま返した。
「もうどこにも行かない」
 やっと安心したのか、母はおとなしく風呂に入った。
 母の姿が見えなくなって、ようやく僕も冷静になりはじめた。

 家の留守電をチェックして、倉井先生と学校に帰宅を知らせ、雑巾で玄関から風呂場まで続く母の足跡をふき取り、リビングのヒーターをつけて、キッチンでお湯を沸かした。
 長風呂の母だけど、今日だけはすぐに出てくるだろうから、今のうちにと思っていたら、
「春都おお! どこおっ!?」
「便所だよっ! うるせーなっ!」
「……あっそ」
 ——やっぱりな。
 けど、風呂で血の巡りがよくなって、完全復活したみたいだ。
 僕としてはそっちのほうが断然うれしい。
 元気のないかあちゃんなんて、つまらない。
 よそがどうかは知らないけど、僕の母親はこうでなくっちゃ!

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