素顔のキスは残業後に
一人で留守番している時はキッチンには入らないこと。

そうきつく母から言われていたから、病院に駆けつけた母の顔を見てドキッとした。
でも母は私を叱るでもなく私を強く抱き締めて「ごめんね」と小さく呟くと、声もあげずに涙を流した。


頬を伝い落ちる母の涙は初めて見るもので、胸が押し潰されそうになって思った。

深い悲しみを抱えながら涙を堪えていた母は、声を上げて泣くことが出来なくなってしまったのかもしれないと。


大人になったら一人でも生きていける。

強い人間になれる。

あの頃の私は、そう思っていた。


だけど誰かに裏切られて、目に見えない傷を負ったり。

守るべきものができて時に不安になったりして、
何も知らなかった子供の頃より弱くなってしまう瞬間があるのかもしれない。


だから、今度は私の番だよ?

包丁の切れ味がとか、仕事が遅くなったとか。
声を詰まらせる母に「大丈夫だよ」って笑ってみせた。


私の笑顔につられて母も笑う。それだけで傷の痛みが和らいでいく。
私にも出来ることがある。なんだかすごく誇らしかった。

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