素顔のキスは残業後に
そこで手を止めた柏原 柊司は私の顔を斜めに覗き込んで、「やってみるか?」とポツリ言った。


彼ほど手際良くはできない。
でも時間をかけたらお刺身だって、見た目はそれほど変わりなくお皿に盛りつけることもできた。


なんだ、こんなに簡単だったんだ。
こんなに簡単に出来るなら、やっておけばよかったな。


ぼんやりそんなことを思っていると、流しで手を洗い終えた柏原さんにコツンと頭をこづかれる。


「やる気もあるから、合格」


触れた指先の感触が――…向けられる優しい笑顔が嬉しいのに。
なぜだか上手く笑い返すことができない。


目の前にある笑顔が別の人のものへと変わっていくと、

不意に湧き上がるどうしようもない想いで、まぶたの裏が熱くなる。
逃れるようにまな板に視線を落とした。


いつものおまじないは、両手が塞がれていてできない。

視界がぼんやり揺らいでいく。
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