喩えその時が来たとしても
 
 そんなこんなでもう上がりの時間になった。

「馬場さん、帰りちょっと時間いいかい?」

「は、はい」

 よしっ、これで先に帰られる事もない、が……もう後にも引けない。こうなったら余計な小細工はやめてストレートに告白しよう。鈴木電気の鈴木さんからも太鼓判を戴いてるし、事務の鈴木さんからだって後押しして貰ってる。何も恐い物など無いのだ。

 帰り支度を終えて事務所の階段をカンカンと高らかに踏み鳴らして降りると、真っ赤なマウンテンバイクの隣でモジモジしている馬場めぐみが居た。

「じゃ、少し歩こうか」

「はい……」

 前みたいに何も喋らずにダラダラ歩くのは避けなければならない。ああ、昼間の非礼も詫びてない!

「あの時は突然胸を触って悪かったよ。ほんとゴメン」

「あ……私も叩いちゃってすみませんでした」

「いやほんと、信じて貰えないと思うけど、あの時は必死だったんだよ。君の幻が消えないようにと君に触れたんだ。君が買い物に出たと聞いて、必死で追い掛けた。昨日から喰ってない空腹と慣れない運動で朦朧とする中、君を求める気持ちが幻を見せたんだと思って、つい手が出てしまったんだよ」

 普段は余り饒舌とは言えない俺の、立て板に水の激白(いや、言い訳)だった。馬場めぐみは黙って耳を傾けている。

「幻を見るほどに俺は君を欲している。俺には君が必要なんだ」

 さあ、一番の盛り上がりがやって来た。ここですかさず告白だ。馬場めぐみをゲットするぞっ!

「良かったら俺と付き合ってくれないか!?」

 決まった! 恐いほどに上手くいった!

「ごめんなさい、失礼しますっ!」

 ほうら振られた……えっ? 振られた? 「ほうら告白成功だ」と、ほくそ笑む筈じゃなかったか。馬場めぐみが俺の求愛を断るとは、一体どういう事だ? 俺は今、たった今彼女からごめんなさいって言われたよな。彼女は深く頭を下げていた。テレビでよく見るシーンのそれは、求愛を受け入れられないという意思表示の筈。

 ガラガラと音を立てて崩れ去った、俺の自尊心と目論見を取り敢えず立て直し、慌てて馬場めぐみの姿を探したが、また小さくなってしまった彼女の背中を見送るだけの俺が居た。

 何がいけなかったのだろう。乳を掴んだ事か? いや、それはさっき謝罪したし、馬場めぐみも許してくれた。

 では何故だ! 最も惜しむらくは少しも彼女と話が出来なかった事だ。これではちっとも意志疎通が出来ないじゃないか! 一番押さえておかなければいけない所を俺は押さえ逃してしまったのだ。


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