喩えその時が来たとしても
 
 翌日の朝、俺は目覚ましが鳴る数分前にパッチリ目を覚ました。布団から半身を起こして目覚まし時計を見守る。ジリッと一声発した途端に、バシッとそいつを黙らせる。俺は今日一日の滑り出しがこれか、とひとり悦に入っていた。

「見たかハム……」

 得意満面でケージを振り返ったが、奴は小屋でお休みのようだ。

「だがな、今日の俺は一味もふた味も違うぞ」

 これは虚勢ではない。不安や迷いが今は感じられないし、睡眠もばっちり。馬場めぐみが付き合う事を拒む理由も特定出来た。後は事務所に早目に行って、彼女が来るのを待つだけだ。

 軽い足取りでアパートを出る。いつもより30分は早い電車に乗り込んだ俺は、ガラガラの車内を見渡した。週刊誌の中吊り広告も言っている。『思い込みパワーが貴方を変える』と。いや、もはや俺のは思い込みではない、歴とした事象なのだ。俺が馬場めぐみを救うのだ。

「待ってろよ、もうすぐだからな」

 そして事務所に着いた俺は、携帯に入れておいた暗証番号でゲートの鍵を開ける。事務所の窓を開け放ち、台拭きで机を拭き上げる。

「……おはよう……ございます、先輩……」

 いつも通りに出勤してきた彼女は、済まなそうに声を掛けてくる。だが俺はそれには触れず、明るく返した。

「おはよう馬場さん。いつも先に来てきれいに掃除してくれて有り難う」

「えっ? いいえ……家から近いですし、一番後輩なので当然です」

 これで掴みはOKか。いや、もうひと押し。

「今日は俺も手伝うよ。いや、一緒にやろう」

「え、あ……、はい、お願いします」

 俺達は二人で力を合わせ、事務所と詰所の掃除をやり終えた。

「やっぱり二人でやると早いな。一服しよう、これ」

 小銭を渡すと馬場めぐみは上目遣いで俺を見ながら、

「先輩は微糖で……」

「いや、馬場さんと同じやつで」

 そうだ。全てはあそこから狂ったんだ。

「なんかそれ、懐かしい気がします」

 馬場めぐみもそう思ったのか、にっこり微笑んで自販機へ向かった。

「はい先輩、私とおんなじミルクティー」

「うん」

「頂きます」

「どうぞ」

 コクコクコクッと喉を鳴らし、美味しそうにミルクティーを飲む彼女を見て、俺もプシッとプルトップをこじる。

「うん、ひと仕事終えた後には甘いのもオツだな」

 彼女はニコッと笑顔で返事をした。

「それでさあ、馬場さん。話が有るんだけど……」

「はい?」

 馬場めぐみは輝く笑顔で振り返る。


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