漆黒の花嫁 - リラの恋人 -



見上げた先には、額に汗を滲ませ、肩で息をするアードさんの姿。

逃げるあたしを追って走っただけでは、彼の体力を考えれば、こうまではならない。

あたしと視線が合うと、険しかった表情が少し和らぐ。

心地よい低音で声をかけられた。



「大丈夫か?」


いつもの彼だった。

光の加減で色が変化する不思議な瞳を、どこか不安げに揺らしてあたしを映し出す。


流れ出した涙は、頭からかぶった川の水と交じり合う。

泣いていると分からないはずだと自分に言い聞かせ、彼から視線を外さないように努力した。


‥追いかけて、くれてた‥?



「怪我は?」


何も答えないあたしに、更にアードさんが声をかけてくれる。

あたしは首を左右に振って答えた。


「そう‥」と息をついたアードさんは、自分の上着をあたしの肩に掛け、そのまま自分の方へと引き寄せた。


「‥ッ」


あたしは小さく息を呑む。


「‥無事で良かった」


耳元で、心の底から安堵しているようなアードさんの声を聞きながら、あたしはゆっくり目を閉じた。

目尻から涙が流れていく。



‥これで十分だった。


彼が自分を好きではなくても。

酷い事を言ったのに、ちゃんと真っ直ぐ目を見て話してくれた。

心配さえしてくれて、追いかけてくれた。


こうして案じてくれると分かっただけで十分だと思った。



「‥ごめんなさい‥」


それでも少し切なくて、しぼりだすように言葉を吐き出す。


ギュッと抱き締められ、あたしは気が遠くなるほどの幸せを感じていた。
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