最後の意地
「ありがとう。このお返しは、新婚旅行のお土産で」
「何? あれ、俺にはないの?」
「口紅なんかもらっても、しかたないでしょ」


 袋から取り出した口紅のパッケージを、千寿子は陽平に見せつけるように振る。唇に気を使うのを皆知っているからか、土産には唇に関した化粧品をもらうことが多い。


「ちょっと仮眠……」
「浩二さん呼ぶ?」
「いい。今日は朝まで帰らないって言って出てきたから、迎えに来てもらわなくてもいいの」


 店の奥にあるのは、ゆったりとしたソファ席。勝手知ったるという雰囲気で、宏美は物入れから毛布を取り出してソファに寝っ転がる。


「あいかわらずだなぁ、もう」


 くすり、と千寿子は陽平の後ろに目をやる。グラスの中身はほとんど空――今度は何を頼もうか。

 陽平がこの店を出したのは、大学を卒業した翌々年だっただろうか。それ以来、同級生達のたまり場みたいに使われるようになって、いつの間にか毛布が置かれるようになっていた。

 二十代の頃ならともかく、この年になっても朝まで飲もうなんて人間は少なくなっている。家庭を持つ人数が増えるのと反比例して、このソファに転がる人数は減っていった。


「で? 何でまた急に見合いなんてしたんだよ。まだ結婚なんてするつもりないと思っていたのにさ」
「うーん、そうねえ」


 氷しか残っていないグラスを押しやる。


「限界だと思ったから、かな」


 三十歳を過ぎての独身女性が珍しくなくなったとはいえ、年々親戚の風当たりは強くなっていく。集まる機会があれば、子どもを抱えた従姉妹と比較されるのは当たり前。

「今は仕事が楽しいから考えてない」が通じるのは二十代のうち。三十過ぎれば、「彼がその気にならなくて……」と嘆いて見せて。三十代も半ばになれば、本人以上に親の方が焦り出す。

 それを間近に感じていたら、一人一人少なくなっていく独身側に残っている勇気なんてなかった。たまたま親戚が見合い話を持ってきてくれたからそれに乗っただけのこと。そう説明すれば、陽平は不思議そうな表情になる。


「千寿子が、そんな風に考えるなんて想像もしてなかったよ」
「そう?」


 目の前に滑らされるのは水のグラス。一度休憩を挟めということらしい。


「だってお前もてるし、仕事だって順調だろ? なんかこう男に頼らなくても生きていける感じが漂っているっていうか」
「生きてくだけならね、どうにでもなるけど……あんたにはわからないかなぁ。朝ご飯何食べようかとか、DVD何見ようかなとか。そういう小さい会話ができる相手がいるのといないのとじゃ大違いなんだって」
「……ごめん、俺わかんない」
「自由人だもんねぇ」


 親が資産持ちで、道楽混じりの店を経営していても生活には困らない。顔も悪くはないし――千寿子の贔屓目も入っているのは否定できない――気配りだってかなりのものだ。

 千寿子が知っているだけで、つきあっていた女性の数は片手の数じゃ足りないけれど、長続きしないのは彼が今の生活をこよなく愛しているから。


「千の寿って書くのにいつまでも売れ残ってるわけにもいかないじゃない」
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