最後の意地
 笑いに紛らわせれば、そうだなとカウンターの向こう側からも笑顔が返ってくる。


「ちょっと化粧直してくる」


 ポーチ片手に立ち上がると、陽平は千寿子を引きとめた。


「二人しかいないんだし、今直す必要ある?」
「……気分の問題」


 ぴしゃりと言って、店の奥へ向かう。通りすがりに確認すれば、宏美は完全に眠り込んでいた。いつものパターンだと、一時間くらいは熟睡しているはず。


「覚えてないんだろうなぁ」


 薄暗い照明の下、濃くなり過ぎないように注意しながら化粧を直す。口紅をきちんを引いて鏡を見つめた。

 大丈夫、どこにも隙はない。お守りみたいに、薬指にはめた指輪に手を触れる。


「最初の会話、覚えてる?」


 今夜は飲まない方がよさそうだ。戻るなり、カウンターに頬杖をついてたずねる。


「……最初の会話って」
「入学式直後」
「覚えてないなぁ」


 グラスを片づけながら、陽平は首を傾げた。


「歯に口紅がついてる」
「へ?」
「『前歯に口紅がついてるよ』って言われたの」


 くすっと笑うと陽平は気まずそうな顔になった。そんなことを言った覚えはないのだろう。きっと、普通なら言われた方も忘れてる。


「化粧始めたばかりで慣れてなかったしね」


 田舎の高校を出て、上京したばかり。化粧なんて、高校に通っている間はしたことがなかった。予想以上にめまぐるしい生活。化粧の仕方を覚えて、新品のスーツに身を包んで。


「まあ、確かにショックと言えばショックだったけど、あれから気をつけるようになったから問題ないでしょ」


 大学の入学式直後、期待と不安に胸を膨らませながら入った教室でのさいごの会話。千寿子にとっては、ある意味とどめをさされたようなものだった。


「おかしなものよね、出会ってから二十年近くでしょ。その言葉だけは忘れられないのよね」
「悪かった」


 何が悪いのかわかっていないだろうに、陽平は頭を下げてくる。実際彼は悪くないのだ。言葉を選ばず口にしたのは、あの頃は彼も若かったから。


「いいんだってば……お水、もらえる?」


 あれから口紅を引く度、歯を確認する癖がついた。
 けれど、陽平は気づいていないだろう。あの時から、千寿子が陽平を目で追っていたことに。


「知ってた? 俺、千寿子のことけっこう好きだったんだよな」
「……そうなの?」


 薄々は気づいていた。
 けれど、気づいていないふりをしてきたのは――きっと、一歩踏み込んでしまったら今の関係を壊してしまうとわかっていたから。自由人の陽平とでは長続きするはずがない。

 二人の間に一瞬微妙な空気が流れるが、それを先に打ち破ったのは陽平だった。


「結婚祝い、何やろうか?」
「……考えておく。うんとお高い鍋とかお願いしちゃおうかな」
「……俺の財布事情も考えといて」


 隙は見せない――絶対に。想いは秘めたままにしておくべきだ。きちんと引いた口紅は自分に言い聞かせるためのもの。こうやってこの店で夜が明けるまで過ごすことはもうないだろう。


「お水もらえる?」


 空にしたグラスをカウンターの奥へと滑らせて、千寿子は綺麗に色を塗った唇に弧を描かせた。
 
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