プリンセスは腕まくらがお好き
18時からのアポイント
アポイントまで45分。

「篠宮、見積書忘れてるぞ!」
「わー!ありがとうございます!」

マネージャーから奪い取るようにして見積書をバッグに押し込み、わたしは大急ぎでエレベーターに乗った。

篠宮さつき、入社3年目。
不況にあえぐ広告業界の中で、めずらしく成長を続けている「H.(エイチドット)」という中堅代理店の若手営業マンをしている。

エレベーターに備え付けられたミラーの前に立ち、素早くリップを塗り直す。
このミラーは、今年の春にH.念願のこの自社ビルに越してきたときに、わたしの要望で設置してもらった。

「わたしが同期の中で売り上げ1位になったら、エレベーターに鏡を取り付けて、女子トイレのメイクスペースも広くしてください!」

半期の間がむしゃらに仕事をとってきて、その公約を果たしたのだ。

大慌てしたわりには、鏡の中のわたしは、いかにもそつなく仕事をこなせそうなオフィスウーマンの顔をしている。
濃い栗色の髪に、少し濃い目のメイク。
ミラーやメイクは女性営業にとって欠かせない道具だ。
わたしは、この道具を最大活用して仕事を取ってきた。
自分の仕事の成果であるミラーの前で、満足げに笑顔をつくってみせた。

エレベーターの扉が開き、ミラーから視線をうつして降りようとした瞬間、ぼふん、と大きな壁にぶつかった。

「いたいっ」

ああ、メイクが……

「すみません!大丈夫ですか」

顔を上げる。どうやら壁ではなかったみたい。
ロビーはもう消灯されていて、暗くて顔がよく見えない。
それでも相手が壁だと思ったのも仕方ないくらいの大男だということは分かった。
彼は慌てて肩にのせていた荷物を床に置いた。ずしん、という重みのある音が響く。

「ケガ、なかったですか」
「ええ、大丈夫。急ぐので……」
「えっ、こんな時間からお仕事ですか」

そう言うと、答える前に彼は笑って、

「ああ、違うか。デートで急いでるんですね」

つられてわたしも笑ってしまう。

「いいえ、お察しの通り仕事です。そちらも、お疲れさまです」

そう言ってオフィスを飛び出る。
スマホを取り出すと、雄治からLINEが届いていた。

『今日、外で飯くわない?仕事終わってからでいいから』

同棲中の雄治は出不精で、外食に誘ってくるなんて珍しい。
しかし今日は心あたりがあった。わたしの頬は自然とゆるんだ。

(見積も企画書ももったし、万事オッケー。)
(でも、相手はあの来栖さんか……)
(嫌だけど、受注したら来期の売り上げトップも確実になる。)
(それに、終わったら雄治との約束もあるし!)

アポイントまで40分。
24歳でいられるのは、あと5時間。
25歳まで、あと6時間……。
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