虫の本
 つたない彼女の言葉を要約すると、こうである。
 たとえばの話、命に関わるような大怪我をした野性の肉食獣がいたとしよう。
 その命を独善で助けた事によって、獣は以後多くの動物を食す事になり、獣が生き続ける為に多くの命が失われるのである。
 食中毒に倒れた彼を助ける事は、負傷した野性の獣を助ける事と同義。
 外来の自分達が、独善によって安易に介入すべきではない──それが、赤髪の少女の意見だった。
 少年がどれだけ言葉巧みに説得しようと、そして少女にそれを論破するだけの語彙力が無くとも、彼女は頑なに自らの考えを守り通す。
 二人が睨み合う中、少しだけあたしに“力”が流れ込んだような気がしたが、それはすぐに霧散してしまい、あたしの実体化には至らない。
 倒れている男の容態から一刻の猶予もないと判断したため、少年の方が折れたのだ。
 結果として、男を治癒する手段を持たない少年は、男を担いで人の住む町を目指す事となった。
 彼は決して体力がある方ではなかったが、それでも男にあまり負担を掛けぬよう気を使いながら、一歩一歩進んでいく。
 少年が力尽きて倒れたのは、それから二時間後の事。
 その間、少女は手出しも口出しもする事なく、黙々と少年の後ろをついて歩いていただけであった。
 険しい表情を浮かべたまま。

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 結果的に、町の住人に救助された男はすぐに治療を受け、辛うじて一命を取り留める事となる。
 病院に放り込まれ、解毒処理を施され、栄養剤の点滴を受けていた彼は、目を覚ますなりこう呟いたという。
「ああ……腹減ったなあ」
 そのまま医者の制止も聞かずに病院を抜け出した彼は、結局いつもの定位置に落ち着いたのだった。
 名も無き食事処の最奥部の席、つまりお手洗いの前の席。
 性懲りも無く、彼は件の毒魚の刺身をマイ箸で突いていた。
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