虫の本

千空の場合 2

 毒という概念がある。
 これに関しては多様な見解による様々な定義が為されている所ではあるが、一般的には人体、あるいは生物にとって有害な物質を指す場合が多い。
 言葉のアヤとして“気の毒”“毒を吐く”などといった用法もあるが、いずれにせよ、マイナスのイメージが付いて回るのが世の常だろう。
 しかし、薬も摂り過ぎれば毒となる事は割とよく知られていたりするし、人体には毒とされる金属も、微量ならばミネラルとして必要な栄養素の一つとして数えられている。
 ならばこうは考えられないだろうか──毒とは、過剰に発生した物の総称を指すのだ、と。
 要するにこの男。
 自称、美食家。
 いかなる時もマイ箸の携帯を忘れず、普段は絶対に取らない目深に被った黒い帽子も食事の時だけは取る事を忘れず、何より料理の材料となった生物への感謝の念を忘れぬ彼は、決して長かったとは言い難い人生を、今まさに終わらせようとしていた。
 彼の傍には、異臭を放つ黒く濁った毒の沼。
 ここにしか棲息していない変異種である珍魚は、一部の美食を追う者達には非常に美味な事で知られていたが、なにぶん全身に満ちた毒のせいで調理が非常に難しいのである。
 美食家とは美味なる食を追求する者であり、必ずしも料理が得意である必要は無い。
 コックとは異なる存在なのである。
 ついでに言うなら、彼は美食“屋”、つまり仕事で美食を極める者ですらない。
 情熱と食欲だけで行動する彼が幻の珍味に出会った時、それを食べずに我慢する事などできるだろうか。
 いや、不可能である。
「つまり、調理に失敗した事による食中毒ですね」
 大当りだった。
 色んな意味で。
 その彼を見下ろす形で、一組の少年少女が口論を繰り広げていた。
「何故だ! 何故助けちゃいけない!」
 声を張り上げているのは、淡い緑のパーカーの少年。
 自業自得とはいえ、倒れていた男を発見した彼は救助を試みるが、悲しいかな、彼は解毒の道具も手段も持ち合わせてはいなかった。
 対する少女は燃えるような赤い髪とは裏腹に、とても冷めた目で少年を睨み返す。
 口下手な性格なのか、何かを躊躇っているのか、上手く反論できていない様子である。
 しかし、少年の言に気圧されている風ではなく、揺るがぬ意志が見て取れた。
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