虫の本
 とは言え、タイムアップは考えにくい。
 理由はどうあれ、奴は俺の命を狙っているようなのだ。
 それは、あと一投だけ羽矢を放つだけで達成されるだろう。
 そして、足を負傷した今の俺には、あの高速で飛来する羽矢を躱す手立ては無い。
 偶然は立て続けに何度も起こらないものである。
 しかし、奴はすぐに俺をどうこうするつもりは無いようだった。
「ああ、この小娘か……こちらはきちんと“再生”してやろう。我は確かに嘘吐きではあるが、一度取り付けた約束は必ず守る主義でな! ひひひひひ!!」
 そう言って、既に体のほとんどが虫食い穴に飲み込まれている由加を、奴はその中へと力任せに突き飛ばす。
 俺が押しても引いてもびくともしなかった由加の体を、いとも簡単に捨て去ってしまった。
 これで、由加がこの世界に確かに存在したという痕跡が、跡形もなく消え去ってしまったと言う事になる。
 自室や教室に置いてあった私物も、既に灰色の中消えているかもしれない。
 彼女を知る人間も、あと何人残っているのだろうか。
 それ以前に、それは本当に“人間”だったのだろうか。
 そうなれば、俺は由加が実在していた事を、証明出来るのだろうか。
 死とは終焉である。
 しかし、死によって残される物も無い事はない。
 しかし──こんな“消滅”はあんまりだ!
 惨過ぎる!
 怒りと悲しみが全身を満たしていくのを、俺は静かに感じ取っていた。
 しかし、心は焼け付かんばかりに加熱していく。
「て、てめえ!!」
「ひひひひひ! 良い声で鳴くな、それでこそ我も楽しめるというものだ! だが勘違いするな、愚者よ。これが我が“再生”である! 刮目せよォ!!」
 端正な作りの顔を歪め、奴は嗜虐心に満ちた悪魔の笑顔を振り撒いている。
 壁にしがみつきながら凄む俺になんか全く気にも止めず、自称再生天使とやらは躊躇せずにその腕を灰色の中に突っ込んだ。
 一片の迷いも見せずに、由加を放り込んだ穴に右腕を突っ込んだ。
 由加はあれに触れただけで身動きが取れなくなったけれど、あの糞天使は大丈夫なのだろうか。
「そうら……釣れたぞ! ひひひひっ!!」
 ずるり、と奴がその腕を穴からから引き抜く。
 それだけではない──引き抜いた腕には、しっかりと握られている物があった。
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