虫の本
 片足を上げたままでは体勢が安定しないのは、一目瞭然である。
 だから、この踵落としも俺には当然読めていた。
 俺はしゃがんだ体勢のまま、距離をとり過ぎない程度に後退すれば良い。
 うさぎ跳びで跳ねる要領で、軽く後ろに跳ぶだけだ。
 大丈夫。
 羽野郎の動きは予想以上に鋭く速いけれど、赤髪ほどのキレは無く、しかも全て俺が誘導した通りに動いている。
 大丈夫。
 俺は予め決めておいたパターン通りに動き回るだけで、時間を稼ぐ事が出来る。
 大丈夫。
 その間に赤髪は、俺の作戦を見抜きかねない由加をここから引き離してくれる。
 大丈夫。
 後は羽野郎が短気を起こして隙を見せるまで、俺は耐え抜けば良い。
 大丈夫。
 理屈では分かっている。
 大丈夫大丈夫大丈夫。
 なのに──
「っと……うわっ!?」
 どさり、という音。
 そして背中への鈍い衝撃。
 俺の視界には、夕日の赤と無の灰色が割り込んできていた。
 その左右を黒い建物の頭の並びが縁取っている。
 夕暮れの空だった。
 見間違いようもなく、それは裏路地から見上げた空だった。
 気がつけば、俺は無防備にひっくり返って空を見上げていたのだ。
 灰色に侵蝕された夕焼けは、あまり綺麗ではなかった。
 …………。
 着地に失敗した!
 無理な体勢で、後ろなんかに跳ぶからだ!
 そう気付いた時には後の祭である。
 理屈では分かっていても、理屈には穴が無くても、体がついていかない可能性までは頭が回らなかったのだ。
 焦りばかりが先行し、思うように体が動かない。
 それは、どうしようもない程の隙──こんなミスは、完全に失念していた!!
「どうした、もうダンスは終わりかね?」
 羽野郎が小馬鹿にした顔で、俺を見下ろしている。
 冷や汗が頬を伝うばかりで、やはり俺の体は思うように動かない。
「どうやら、俺にはそんなお上品な嗜みは肌に合わなねーらしいや」
「そのようだな、だが安心するが良い。“再生”した暁には、我が教えてやってもいい」
 奴の余裕のある嘲りが不測の事態による混乱と相まって、さらに俺の心を掻き乱す。
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