虫の本
 こちらの決死の挑発にも動じず、奴の“左手”が無慈悲に迫った。
 急いで起きあがろうと藻掻く俺だったが、焦りに突き動かされた両手は地面には触れず、虚しく空を切っただけだった。
「ど、どーせダンスを教わるなら、綺麗なお姉さんに手取り足取り教えてもらいたいもんだね」
「ふん、そのように由加に伝えておいてやろう」
「そーいう事、人の彼女にチクるんじゃねーよ!」
 なおも口先だけしか自由にならない俺は、軽口で時間を稼ごうとするも、それすら空回りを始めていた。
 俺の首筋に羽野郎の“左手”の指先が触れ──
「ッ!!」
 咄嗟に頭を反らし、奴の手から逃れようと抵抗を試みる。
 が、奴にとってはどこを掴もうと関係は無いのだ。
 俺を掴み、抱え上げ、嫌味ったらしく前口上の一つでも披露してから、灰色の穴に投げ込むだけである。
 奴にとっては造作も無い必勝の手順。
 が、こちらにとってはその限りではない。
 首に向かって伸ばされた奴の“左手”は俺の首を掴み損ね、しかし代わりに難なく俺の服の胸ぐらを掴み取った。
 それは本当にただの偶然。
 しかし、俺にとって最大の武器は、思考する頭と時間を稼ぐ口先の二つだけなのだ。
 声を封じられる事は武器の半分を失う事と同義であり、それは死を意味すると言っても過言じゃない。
 こうして胸ぐらを掴まれただけなら、直に首を掴まれた訳ではないなら、まだ俺は死んでない!
 少しの息苦しさはあるものの、まだやれる!
「ふん、所詮は貴様は口先だけの愚者か。やはり腕っ節は大した事がないな」
 ぐい、と身体を持ち上げられ、俺の両足が地を離れた。
 こいつも見た目のヒョロさに似合わず、なかなか腕力があるようだ。
 力加減からして、栞による身体能力の強化のようなものとは違い、不可解な力を使っている気配は無い。
 それでも片手で軽々と体重が六十キロ強はある俺を持ち上げる腕力には、決して油断出来ようはずもなかった。
 首を掴まれていたら、一瞬で締め上げられていたに違いない。
 改めて思う。
 こいつも人外の怪物なのだ、と。
 俺なんかが人外の怪物に力で立ち向かって、勝てるはずがない。
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