僕を止めてください 【小説】




 屍体から生まれた。

 それ以外に僕のこの死の世界への憧憬を説明できるものなどない。と、僕はその言葉に、核心に触れた電撃のような啓示を感じた。僕は屍体が身ごもった屍体だった。そして、屍体から生まれた屍体となった。単なる仮死分娩では一切納得できなかったその理由が、今、一切の疑問を挟む余地なく、僕の中にスッと落ちて、そして納まった。僕は屍体の母と共に、死んでいくところだった。母の呼吸が止まり、酸素が止まり、心臓が止まり、血流が止まり、脳の活動が止まり、神経の伝達が止まり、僕にそれが次第に伝搬していった。胎児の僕の心臓は小さいけれど動いていた。だが、酸素は、母親の胎内から血液を通じて供給されていた。その供給が止まった。僕は次第に酸欠になっていった。少ない酸素を消費しないために、脳や全身の活動が低下し、僕は仮死状態になった。それでも酸素は二度と母からは供給されなかった。

 屍体の中の屍体。

 それを想ったとき、僕の中にあの聖地が全貌を顕した。いままでどんなに追ってもつかめなかったあの国が。

 母の屍体。それが僕の故郷のポータルだった。

 風のような耳障りな呼吸の音は既に止んだ。規則的な心臓の音すらしない。下がっていく体温。増大していくエントロピー。無音で無温の世界。ベルベットのようななめらかな時間。その時間もゆっくりと速度を失くしていった。そしてこの絶対的な安らかさ。それは生という桎梏から解放された母の存在の証のようにも思えた。

 僕はそれを覚えている気すらした。この死の胎のことを。覚えているというより、これはその時から、ずっと変わらなかった。僕は生まれた後もずっと、そう、あの日まで、この中にいたんだ。

 僕は再び除籍謄本に目をやった。ふと見ると、僕の出生届の年月日と、母親の死亡届の年月日が同じ1月17日だった。届出人はどちらも父の知行。つまり父はまさにこの市役所で、母の死亡届と僕の出生届を同時に出したのだろう。かすかな気配に目を上げると、父の知行がエントランスから入ってくる幻が見えた。僕は除籍謄本を封筒に入れ、カバンにしまいこんだ後ゆっくり立ち上がった。僕はその後をついていった。今の父の宏行に少し似ていた。






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