僕を止めてください 【小説】




 父はさっき僕が上った階段をゆっくりと上がっていった。僕もその後についてもう一度階段を上がっていった。父はフロアに着くと、僕がさっき除籍謄本を貰った2番窓口の、その隣の1番窓口に立った。出生届・死亡届。この1番窓口は、この世界の生死を扱う窓口だった。僕は、各種用紙の置いてあるテーブルの手前に立ち、父の背中を離れたところから眺めていた。死亡届は出来上がっていたが、出生届けにはひとつだけ空欄があるはずだった。その空欄は僕の名前だと思った。それについて係の人と父の間になにかやりとりが有り、ボールペンを窓口で借りた父はその名前の欄に、死亡届に書かれた母の名前“裕美子”の一文字を取ってそこに書き込むのだろう。

 “裕”と。

 二枚の届出用紙は簡単に受理され、父は埋葬許可証と母子手帳を係の人から一緒に手渡され、またフロアを後にした。そしてまたさっきの階段を降りていった。エントランスを横切り、自動ドアから外へと出て行った。ドアのガラスを透かして横顔が見えたその瞬間、それは父でも知っている人でもなく、偶然に市役所を訪れた見知らぬ誰かだとわかった。確信のある妄想と共に、1月17日の幻は終わっていた。

(これでいいよね。帰るよ、裕)

 僕は小さい裕に声を掛けた。

(うん。そうだね)

 それを聞いた僕は、父が歩いたであろうエントランスの床を踏み、さっきの自動ドアから外へ出た。外は変わらず蒸し暑く、厚い雲の僅かな隙間から、傾いた日差しが西からこの建物を射抜くように差し込んでいた。迷惑なほど眩しくて、僕は額に手をかざし、その西日を遮った。夏至を迎えた六月の日は長い。西日が差していた雲間はいつの間にか閉じ、何時なのかも見ずに僕は薄明るい道を帰路についた。
 





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