博士と秘書のやさしい恋の始め方
別れ際、俺は山下さんに念を押された。

「必ず消してくださいね、写真」

「はい」

「絶対ですからね、恥ずかしいのでっ」

「はいはい」

「忘れないでくださいねっ」

「しつこいですよ」

覚えていたら、ね。善処しましょう。

「それじゃあ……お先に失礼します」

「お疲れ様でした。気をつけて帰ってください」

平静を装いつつ、本当は彼女をひとりで見送る自分が淋しいやら、悔しいやら。

「あのっ、先生……」

「なんでしょう?」

何やら切羽詰まった表情で俺を見上げる山下さんに、ひどく心が揺らめいた。

「ありがとうございました。えーと、その……いろいろ楽しかったです」

「こちらこそ」

ひょっとして彼女もまた名残惜しいと思ってくれているのでは……?

そのはにかんだ笑顔に、年甲斐もなくそんな淡い期待を抱いた。

「それじゃあ、また来週です」

「また来週」

丁寧に礼をする彼女に、俺もまた礼をして返した。

なんだかその場を立ち去りがたく、正門へ向かって歩き始めた彼女の背中をしばしそのまま見送っていると――思いがけず、彼女がこちらを振り返った。

なにしろ暗いし、遠目には表情まではわからない。

すると――彼女は俺に向かって両手をあげて、大きく大きく手を振って、それからぺこりと頭をさげた。

なんだろう、この感情は……。

瞬間、何故だか頭によぎったのは、彼女と初めて出会ったあの朝のことだった。

猫好きなのに猫に触れることができない俺を「切ないですね」と言った彼女。

切ない、か……。

あるいは今、自分が抱いている感情も切なさなのではなかろうか。

だとしたら、これはまたなんと厄介な……。

しかしながら、一方で切ないというも存外悪くないのかもしれない、と……。

そんな自分に半ば呆れ、俺はひとりで途方に暮れた。




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