冬夏恋語り


厳しかった夏の暑さもようやくおさまり、夕方の風には秋の気配も感じられるようになった。

父と所長がやりあった日から三日後、東川さんが事務所を訪ねてきた。

ありがとうございましたと、父に頭を下げた彼は、次に 「異動になりました」 と述べたのだった。



「所長の仕返しか!」


「いいえ、所長から謝罪の言葉がありました」



噂に真実味があったので信じてしまった、申し訳ない、以後、噂などないように指導していきたいと、謝りながらどこまでも責任逃れの口調だったと、東川さんは苦笑いしていた。

異動については元の部署に戻したいが、すでに辞令がでて各方面の人事が動いてしまったので、申し訳ないが今回は異動にしたがって動いてもらえないだろうかと、 上層部から詫びとともに伝達がありましたと言う。



「そろそろ転勤時期でしたから、少し早まっただけです」


「そうか……」


「部下より守衛の話を信じるのか、東川にちゃんと話を聞いたのかと、

所長におっしゃってくださったそうですね。

滝田から聞きました。僕のために、ありがとうございます」


「いや、なに、本当のことを言っただけだ」


「小野寺社長は、営業本部長の先輩でいらっしゃるそうですが、大学の?」


「あぁ、あれか……私は大学には行ってないから、大学の後輩などいるわけがない。

営業部長など知らん」


「えっ?」



これには私も驚いた。

てっきり、父が東川さんのために会社の上層部に掛け合ったとばかり思っていた。

では、父のはったりが功を奏し、所長が慌てて処分の取り消しを申し出たとか?

東川さんも疑問に思ったようだ。




「大学の後輩と言った覚えはない。まぁ、私の方が人生の先輩ではあるな」


「あはは、確かに。では、どうして本部が動いたのでしょう」


「私は、所長のように上層部に告げ口をする卑怯なまねはしないよ。

アイツが勝手にそう思い込んだだけだ」



なるほど、と東川さんは大きくうなずき感心している。

密かに話に聞き耳を立てていた事務所のみんなから 「さすが社長」 と声がかかりまんざらでもなさそうだ。



「所長はどうなった」


「それが……」



所長が 「どうか考え直してください」 と父にすがっていたところに、その日予定されていた保険事務所の地区会議のために代理店主が事務所にぞくぞくと集まってきた。

父と所長のただならぬ雰囲気を察した面々は、なにがあったのかと私やほかの事務員に尋ね、これこれこういう事情で……と聞かされたもので、所長は大勢の前でみっともない姿をさらすことになったのだった。

それだけでなく、みなが 「ウチも取引を考えさせてもらう」 と次々と言い出し、その場にいた代理店主の口から噂は瞬く間に広がり、一気に契約解除という事態になりかけた。



「僕がお世話になった上司が、いま営業本部にいて、その人から聞きました。

小野寺社長は、公の役職をいくつも務めていらっしゃるから顔が広く、影響力も大きい。

あの人を怒らせたら、連鎖的に契約解除が広がるだろうと、そんなことを言ってました。

おかげで所長は、転勤先は変わりませんが期待していた昇進は見送られました」


「ふふっ、してやったりだな」


「はい」



親子ほども歳の違う二人が、さも嬉しそうに笑いをこぼしている。

深雪の今日の茶は旨いと、いつも言わないお世辞まで言って、父の機嫌はかなり良さそうだったが、東川さんがお世話になりましたと、転勤の挨拶をすると寂しそうな顔をした。



「近くにきたら、いつでも顔を見せてくれ」


「はい、そうさせてもらいます」



私や母にも丁寧な挨拶をして、東川さんは事務所を出た。

外まで送った私に 「次、こちらに伺ったときは、深雪さんはいないかもしれませんね」 と言う。

どうしてそんなことを言うのかと聞くと、 




「着物が似合う彼と、結婚するんだと思っていましたが」


「そうなればいいけど……」


「そうなればって、なりそうにないんですか?」


「明後日、彼が挨拶にくるの、なにか進展があるかな」


「ありますよ!」



東川さんが言うと、そんな気がする。

後は成り行き任せかな、と気楽に思えるから不思議だ。



「東川さんも、彼女さんと仲良く過ごしてくださいね」


「はい。深雪さんも」



照れた顔を見せてくれたので、彼女と上手くいっているのだろう。

東川さんから 「お幸せに」 と言われ 「ありがとうございます」 と素直に返事をしていた。

風鈴も終わりですね、と言い残して彼は去っていった。

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