冬夏恋語り


ドアを開けると優しい香りに包まれた。

棚に並んだティーカップの多くは、口が広く底は浅めで、紅茶の色が映えるデザインになっているのかカップの中は白く、コーヒーカップを見慣れた目には新鮮だった。

紅茶はビギナーの私は知らないことばかり、店のスタッフに聞きながら渋みの少ない銘柄に決め、カップはいかがいたしましょうと聞かれ、棚に飾られた中からバラの蕾が描かれた小ぶりのものを選んだ。

ハンガリーのメーカー 『ヘレンド』 のカップは、柔らかいカーブが美しい器で眺めるだけで幸せな気分になるものだった。


先週あたりから、体がコーヒーを受け付けなくなっていた。

あれほど好んだコーヒーの味と香りに拒否反応を示すのだから、体の中では想像もつかない変化が起こっているのだろう。

亮君とどこで会おうか悩んだ。

レストランや喫茶店など、メニューにコーヒーがない店はないに等しく、ネットで探し当てたのが、紅茶専門店 『茶蘭』 だった。

店は、一階が紅茶の販売で二階が喫茶ルームになっている。

午後8時半、先ほどまでは数人いた客もいなくなり、喫茶ルームは私一人になった。

気持ちに余裕を持たせるために、待ち合わせの30分前にここに来た。


長引く体の不調に、もしかして……と予感はあった。

日頃、基礎体温の測定を欠かさないことから、体の変調に気づくのは早かった。

排卵後の体温はいつになく高温で、微熱の状態がずっと続いた。

もしかして……と思いはじめてほどなく、異常な眠気と嗜好の変化があらわれた。

吐き気や匂いに敏感になるといった、一般的に知られているつわりの症状ではなかったので 
「まさか」 と、頭のどこかで否定していたが、コーヒーの香りと味を嫌がる体に否定できなくなった。


初めて利用するドラッグストアの店頭で、妊娠検査薬を購入するのはとても勇気のいるものだった。

こんな時に限って誰かに会うのではないか、見られたらと思うと、会計を済ませるまで落ち着かずドキドキが止まなかった。

最終月経開始日から1ヶ月半、判定はできるのかと心配したが結果は陽性だった。


香りを深く吸い込むと、鼻腔から抜けた香りで気持ちが和む。

検査結果を見てうろたえることもなく、これからどうするか、どうしたいかを考えた。

私が出した結論は出産を望むというもので、それ以外の選択はない。

ただ、一人で育てるのか彼と一緒になるのか、私だけでは判断できない。

亮君が 『未来をはじめませんか』 と言ったのは、ふたりではじめようということで、彼も妊娠は想定外のはず。

結婚を決めるのに交際期間の長さは関係ないと言われる、知り合って一週間で結婚するカップルだっている。

けれど、それはふたりだけのスタートで、子供を望むかそうでないかは、のちのち決めることだ。


私と亮君が親密になったのは、ごく最近のこと。

キスの回数も片手でかぞえられるほど、それでも求められて彼を受け入れたことは後悔していない。

結果、妊娠にいたったことも、喜ばしいと思っている。

だからこそ、亮君には妊娠を理由に結婚を選んで欲しくないのだが、この思いを彼にどんな言葉で伝えようか、まだ悩んでいる。




「待ったでしょう。早く帰るつもりがトラブルで呼び出されて」


「忙しかったんでしょう? 今日でなくてもよかったのに」


「いやですよ、約束より一ヶ月も早く深雪さんに会えるのに。速攻で終わらせました」



メニューを覗き込み 『店長のお勧め』 を頼むと、亮君は運ばれてきた水を一気に飲み干した。

ここの水おいしいですね、と明るい顔は屈託がない。

この顔が私の話を聞いてどう変わるのか……


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