世界で一番好きな人
次の日は曇りだった。

私の戸惑う気持ちを映したような曇り空。
だけどその反面、嬉しいような気持ちを抑えるのに必死だった。
思わず、罪悪感を覚えるほどに。

でも、よく考えてみたら。
罪悪感を抱く必要なんてないんだ。
掛川さんに会うのは今日一度きり。
おそらくもう二度と、彼に会うことはない。


"アンジュール"を目指して、とぼとぼと歩く。

「結婚」という文字が、最近は常に目の前にある。
どんなに拭おうとしても拭いきれない強さで、私を縛りつけている。
自分が望んだくせに。


写真屋さんの角を曲がると、小さな看板が出ていて、そのお店はすぐに見つかった。
女性が好みそうな、小洒落たお店だ。

私は、扉をそっと押して、お店に足を踏み入れる。
初めてのお店は、いつも少し緊張する―――



「一名様ですか?」


「いえ……、」



店を見回すと、店の奥の方に、見慣れたグレーの背広が見えた。
昨日の夜、ぼんやりと眺めていたあの写真の人だ。

私が一歩ずつ近付くと、その後姿が近くなる。
近くなればなるほど、私の鼓動は強くなる。

不思議な感覚だった。
どこまでも、引き寄せられていくような。
どんな人か分からないのに、絶対的な安心感があるような気がするその背中―――



「……掛川さん。」



グレーの背中が、ゆっくりと振り返る。
白髪交じりのその人は、写真の中と同じ、憂いのある表情をふっと崩した。



「……瞳子さん。」



さっきまで流れていたはずのジャズの音色が聞こえなくなる。
私の心に、体に、掛川さんの落ち着いた声が響く。


どれくらいの時間だろう。
永遠にも、一瞬にも感じられる時の流れの中で、私と掛川さんは視線を交えていた。
不思議な心地よさが私を支配して、沈黙さえも掛川さんのテンポに引き込まれるようで―――



「どうぞ、」



掛川さんが、向かいの席を指す。

私は、軽く会釈をしてその席に座る。



「雨が、降りそうですね。」


「あ、傘、忘れました。」


「そう。でも、何とかなりますよ。」


「ええ、そんな気がします。」



他愛もない話をしながら、私は鞄を横に置く。
この鞄の中の写真を渡してしまえば、もう用事は終わる。
それが、名残惜しいような気持ち。



「瞳子さんは、何にします?」


「あ、えっと、」



掛川さんが、メニューを私の方に向けてくれる。



「ここのコーヒーは、とてもおいしいですよ。チーズスフレも。」


「そうなんですか!」


「ええ。私はいつも、ケーキセットを注文します。」


「じゃあ、私もそれで。」



軽く頷いて、掛川さんはスマートに店員さんを呼ぶ。
指の合図だけで私の分もケーキセットを注文すると、魅力的な笑みを浮かべて私を見た。



「黙っているのも、つまらないでしょう?」


「え?」


「あなたです。こうして会ったのは、何かの縁ですから。諦めて、お話でも。」


「あ、えと……。」



掛川さんは、ふふ、と笑う。
動揺した私を見て、笑っているのだと気付く。



「あなたから電話を掛けてきてくれた。そうでしょう?」


「……はい。」


「そして、こうして。私のお気に入りの店で、一緒にコーヒーを待っている。」


「ええ。」


「偶然ですよね。」


「そうですね。」



掛川さんの笑みが深くなる。



「ご結婚なさるんでしょう?」


「あ、……はい。」



そうか。
私が掛川さんの写真を見たように、掛川さんも私の写真を見たはずだ。
きっと、結婚前の二人だと思ったのだろう。
そして、その推理は正しい。



「どうして、そんなに浮かない顔をしてるの?」


「……何となく、不安になって。」


「不安に?」


「ええ。……私は彼を、……本当に愛しているのか、とか。」



掛川さんに、こんな話をしても仕方がないと分かっている。
でも、何となく。
言葉がするするとこぼれ出る。



「それは、マリッジブルーですね。」


「え?」


「一般的に女性は、結婚を前にすると不安になるのですよ。本当に、彼でいいのか、ってね。……あなたも例外ではなく、一般的な女性ということですね。」


「そうなんでしょうか。」



言葉にされると、もやもやしていた気持ちが片付いていくような気がする。
誰しも結婚前にはこんな気持ちになるのだとすれば。
私だけではないのだから。

でも、それなら。
掛川さんを見て、ときめくこの気持ちは?
どう説明したらいいのですか―――
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