世界で一番好きな人
運ばれてきたチーズスフレをつつきながら、掛川さんとまた無言になる。
でも、その沈黙は、瑛二さんといるときの圧迫感のあるものとは違う。
ただ、その憂いのある表情を見つめているだけで、私は心が穏やかになっていく。



「あの写真のこと、訊いてもいいですか?」


「写真、ですか?」


「掛川さんの写真。」


「ああ。」



掛川さんは、納得したように頷いた。
心なしか、憂いが深くなったような気がした。



「あれは……遺影ですよ。」


「……遺影?」



思いもよらない言葉に、私は驚く。



「どうしてまた……。」


「生きているうちに用意しておけば、死んで人に迷惑をかけることはないでしょう?」


「でも……、」


「人間は、いつ死ぬかなんて分からない。それは瞳子さんにだって、言えることです。」


「確かに、……そうですけど。」



何だか納得がいかない。
そんなことを考えながら生きている人が、世の中にどれだけいると言うのだろう。



「瞳子さんは、いつ結婚するんですか?」


「来月です。」


「随分早いですね。まだお若いでしょう。」


「26です。もうそろそろ結婚しないと、子どもも欲しいですし。」


「計画があるんですね。」



掛川さんは、可笑しそうに笑う。



「どうして笑うんですか?」


「いえ、失礼。……でも瞳子さん、人生はすべて、計画通りに進むとは限りませんよ。」


「それは……分かっています。」



私の両親は、私が幼い頃に離婚した。
何も、そうしたくてしたわけではないと分かっている。
結婚したころは、一生を共にするつもりだったはずなんだ。



「ただね、私はあなたが少しばかり心配だ。瞳子さん。」


「え?」


「人を愛するということは、覚悟の要ることだよ。」



そう言って、掛川さんはふっと笑った。
まるで、何もかも分かっているというような笑みだった。


掛川さんのコーヒーは、もうほとんど無くなっている。
待たせるわけにはいかないので、私も急いで残りを飲んだ。
チーズスフレは、ほとんど味が感じられなかった。



「じゃあ、これ。」



鞄から、昨日受け取った写真を取り出して、掛川さんに差し出す。



「ああ。そうだったね。」



掛川さんも、同じ袋の写真を取り出して、私に差し出した。

そして、同時に交換する。



「じゃあ、これで。」


「ええ。これで。」



掛川さんと席を立って、アンジュールを後にした。

またこのお店に来れば、彼に会えるような気がして。
そして私はまた、このお店に来てしまうような気がして。

少し、怖かった。



「雨、今にも降りそうですね。」


「それなら私、急いで帰ります。」


「じゃあ、」


「ありがとうございました。」



お互いに会釈をして、お店の軒先で別れる。
名残惜しいと感じているなんて気付かれないように、私は背筋を伸ばして歩いた。

そしてしばらくして。

掛川さんの言った通り、激しい雨が降り始めた。
突然の、スコールのような雨。

あっと言う間に、服も鞄も雨に濡れてしまう。
このまま駅まで歩いたら、全身ずぶ濡れになってしまいそう。

アンジュールまで戻るか、駅まで疾走するか悩んでいた時だった。

すっと差し出された傘が、私の上に降る雨を遮る。



「え、」


「雨、やっぱり降ってきましたね。」



掛川さんの優しい声に包まれて、私は安堵した。
もう大丈夫だ。
掛川さんが来てくれたら、大丈夫だ―――



「私はこの近くなので。この傘、お渡ししますよ。」


「え、でも……。」


「さあ、どうぞ。」



掛川さんは、私の手に無理矢理傘の柄を握らせると、どこかへ走って行った。
その後姿をじっと見つめる。

この傘を口実に、もう一度掛川さんに会いたい。

罪悪感より先に、素直にそう思った。
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