蒼い雨に濡れながら
図書館は数年前に建て替えられた。吹き抜け構造に変わり、明るく開放的になった。中に入ると、エントランスの左手に中央サービスデスクが見える。二人はその前を通って、一般図書コーナーに入った。入口から左手奥に掛けて書架が整然と並んでいる。その右手が新聞雑誌のコーナーになっている。そこには350タイトルの新聞や雑誌が公開されていて、老人から学生まで様々な年齢層の人が、テーブルやソファー、窓際のデスクで雑誌や新聞を見ながら、思い思いに時間を過ごしている。その光景は健一には、ひどく奇異なものに思えた。眼の前に展開されている図書館は、本を借りる、読む、そんな場所としてだけでなく、活字を媒体とした一種の憩いの場として機能している。そんな図書館は健一が知らないものだ。健一にとっての図書館は、生真面目を絵に描いたような人種が集まって読書に没頭しているか、一心不乱に勉強をしている暗い場所という印象でしかなかった。健一は二年以上も図書館に足を踏み入れたことがない。浪人を始めた頃には、気分転換と称して予備校をさぼって訪れたこともあるが、そんな人達を見ているだけで息苦しく、早々と退散するのが常だった。ただ、そんな図書館でも、健一がたまに足を運んでいたのは、慰めが欲しかったからだ。確かに予備校にも友達はいる。しかし其処は、ただ点数だけが支配する特殊な社会である。其処には如何に点数を取るかという価値基準があるだけで、親しくなった人との会話も、何時しか全てがそこに収斂されていった。そこに健一が本当に求めている、友情だの語らいだのという要素が入る余地はなかった。健一をそれを嫌った。だが、だから言ってそれは非難されるべきことではない。むしろ予備校という場所は、そうでなければならないのだ。ただそれは健一が思い描いた青春とはかけ離れていたというに過ぎない。健一は本心では、浪人という孤独な環境にいても、自分と同じ境遇の人間との心の共有が欲しかったのである。それは傷を舐め合うだけの甘えた負の共有への願望であったのかもしれない。しかし、それが分かっていても、健一は自分が独りではないという実感が欲しかったのである。こんな馬鹿なことをしているのは俺だけではないはずだという慰めが欲しかったのである。図書館には四年間、予備校通いや宅浪を繰り返しているという人がいた。その傷を舐めあえる人がそこに居たのである。彼がコンタクトレンズを落としたのがきっかけで、短い言葉を交わすようになった。ただそれだけのことだが、彼を見つけると、それだけで健一の心は安堵した。だが、ある日、彼の姿は突然図書館から消えた。と同時に、健一は図書館に行く意味を無くした。図書館に居ると予備校に居る以上に孤独感を感じるようになってしまった。彼の姿が消えたことで、図書館は、健一にとって自分が殊更独りであることを強調するだけの場所に変質してしまったのである。その後、健一が図書館を訪れることは一度もなかった。
二人は視聴覚コーナーへ行ってみた。グレーのパテーションで仕切られた個室で、一人の女性がヘッドホーンを付けてビデオを見ている。隣の青少年のコーナーには勉強用の机が用意されていて、どの机も学生達で一杯である。彼らは二人が近づくとチラリと顔を上げた。カッターシャツを捲り上げている一人の男と目が合った。健一は、一瞬あの浪人生を思い出した。だが、別人であることは言うまでもない。彼は一瞬健一に目をやって、また何事もないように参考書に目線を戻したのだが、その一瞬の盗み見るような目線が、健一に引きずるような嫌悪感を残した。「あいつの目は俺の目に似ている」と健一は思った。
何も悪いことをしているわけではない。なのに、コンプレックスが自分をまるで罪人ででもあるかのように貶(おとし)める。そして生きているのが悪いことででもあるかのように、その目線をおどおどしたものに変える。健一は最近の自分がそんな目線をしているように思えてならないのである。彼の目線は、そんな自分の目線とよく似ていた。おどおどと周りを気にしている卑屈な目線。周りを正視しようとしながら、自分を卑下する薄ら笑いが目線を踊らせていく。健一はそんな自分の目線を嫌悪した。更に言えば、目線という名の自分の存在自体を、だ。
健一は自分の気持ちを隠すかのように蔵書を検索した。美樹もパネルを覘き込んだ。二人は顔を寄せ合うようにして、「あ」から順にパネルにタッチした。美樹が先程の男をチラリと見た。そして、「あの人浪人かな?」と健一の耳に口を寄せるようにして言った。
「俺に似ている」健一も美樹の耳に口を近づけて小声で言った。「嫌らしいほど目線が似ている」
美樹がくすぐったそうに耳を塞いだ。そして健一の目を覘き込んだ。「うん。似てる。似てる。健ちゃんみたいに、陰気臭い暗い目をしている」と言った。
健一がにやりと笑った。
そんな二人の様子が場所をわきまえずに、じゃれ合っているように見えたのかもしれない。非難するような鋭い視線が二人に突き刺さった。それを感じた時、健一の嫌悪感が再び顔を出し、それは瞬時に頂点まで駆け上がった。しかし、直ぐに健一は感情を殺した。何にもならないんだよ。健一はそう自分に言い聞かせた。だが、そう思いながらも、健一の目の奥には暗い熾(お)きが燃えていた。「俺と同じ目で俺を見るな」そんな悲鳴にも似た熾き火がゆらゆらと揺れていた。
その熾き火の中で嫌悪感の残滓がゆらりゆらりと燃えている。それはまるで健一を断罪するかのように、じりじりと健一の心を焦がした。自己嫌悪の炎に炙(あぶ)られながら、健一は自分の感情をコントロールするのに辛苦していた。その炎を上げようとする嫌悪感が、浪人という鬱屈した感情の形を変えた発露であることは明白である。どうしようもない自分自身へ、その怒りの矛先が向いただけなのである。健一は感情のままに気が狂ったように暴走する自分を想像していた。それが停滞した時間への刹那的な救いででもあるかのように思えた。それは甘美な幻想であった。破滅的な快感であった。健一は妄想を振り払うように頭を振った。あの男に掴みかかったところで、何の救いにもならないのである。あの目線に怒り狂ってみても、何の足しにもならないのである。分かっている。そんなことは百も承知している。しかしこの三年の間にヘドロのように堆積した自己嫌悪と羨望と不満と自虐の嘲笑が、健一に刹那的な暴走をけしかけるのである。あいつらの視線は俺に対する蔑視だ。あいつ何歳だい。やけに年食いやがって。何時まで浪人してやがる。馬鹿は馬鹿なりにさっさとリタイヤすりゃいいんだよ。あいつらの目線はそう言った。それは俺の存在に対する最大の侮辱だ。それは許されるはずはないのだ。だから、俺が狂っても仕方がないのだ。悪いのはあいつらの目線だ。そう健一をけしかけるのであった。だが、そう吼えてみたところで、その遠吠えが消えた時、俺が帰る場所は、結局は沈滞した時間に埋もれた哀しさの中でしかないのだ。健一はもう一度小さく頭を振った。
そんな健一の思いを知ってか知らずにか、「行こう」美樹がそう言って健一の手を引いた。
二人は小さな螺旋状の階段を上がった。そして、二階の中庭へ出た。セメント作りのテラスの上に白いテーブルと椅子が置かれている。二人は雨に濡れていないテーブルを選んで座った。室内には数人の人影が見えるが、此処は二人だけだ。美樹は腰を下ろすと両手を挙げて大きく背伸びをした。そして、ほーっと大きく息を吐き出した。
美樹は白いプラスチックの椅子の上で、まるで嬉しくて堪(たま)らない幼稚園児のように、足をぶらぶらさせている。そんな美樹をよそに、健一は硝子に映った自分達の姿をじっと見つめていた。円形の白いプラスチック製のテーブルと白い椅子。そしてその上にいる二人。何の変哲もない光景である。美樹も硝子に自分達が映っているのに気付いた。硝子の上の美樹が手を振った。健一もそれに手を振って応えた。そんな二人の様子は、まるで恋人同士が戯れているように見える。だがその他愛もない光景は、健一にどこか甘酸っぱく、心の琴線を虚しく弾くような感傷をもたらしていた。それはわずか三年前の、だが、遠い記憶の中の自分の姿であった。目を瞑ろうとすればするほど鮮やかさを増していく、青春と呼ばれたものの残像であった。
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