蒼い雨に濡れながら

(二)

絹のような雨が降っている。細い雨だ。その雨の中に、ビニール傘を差した健一の横に、ピンクの縁取りがあるビニール傘を差した美樹がいる。二人は諫早公園に設置されている眼鏡橋の上に立っていた。石造りの橋は眼鏡のような優雅な二つのアーチを持っているのでそう呼ばれているが、その橋が雨に濡れながら、ひっそりとうな垂れているように見える。二人が見下ろしている池は、どんよりと淀み、水面はそぼ降る雨に打たれて、小さな文様を数限りなく作り出している。その中を二匹の三色鯉が悠然と身体をくねらせながら通り過ぎた。
「あれが僕の高校だよね」顔を上げた健一が、目の前の諫早高校を見て呟いた。「僕が通った高校だよ」
美樹は傘越しにチラリと健一を見た。「何を言っているんだろう。当たり前のことを」そう思ったが、黙って諫(かん)高(こう)の裏門を見やった。裏門はひっそりと雨に濡れ、敷地内にある御書院の森も雨の中にひっそりと佇(たたず)んでいる。木々達は雨に打たれながら静かに頭を垂れ、辺りはしっとりと濡れた静謐な情感に包まれていた。
健一はそれっきり口をつぐんで、じっと裏門辺りを見ている。何を見ているのだろう?美樹は思った。その時、美樹は、ふいに健一が見ているものに気が付いた。
そうだね。そうだよ。健ちゃん、あそこがあなたの諫高だよ。美樹は心の中で呟いた。あなたの高校だよ。あなたの笑顔が輝き、青春が弾けた場所だよ。あなたが一番輝いていた場所だよ。美樹は健一が見ているものの哀しさに胸が蓋(ふた)がれるような切なさを感じた。
過ぎ去った時を幾ら追い求めても、その時代は決して帰っては来ない。ただ懐古の情に浸りながら、その輝きを見つめるしかないのである。ただ、それを懐かしんでいるだけではいけない。それだけではいけないんだよ。あの時代をもう一度、取り戻せばいいんだ。あの時代は青春の残滓なんかではない。まだ続いている青春の一コマなんだ。それを失くそうとしているのはあなた自身だ。誰のせいでもない。あなたが自分で失くしかけているんだ。あなたは、自分で自分自身を、青春と呼ばれるものからスポイルしようとしているんだ。
「バスケット部の生徒達が歩いていたね」美樹が言った。
健一がゆっくりと美樹を見た。彼の深い目がじっと美樹を見つめた。美樹は正面を向いたままだ。彼女はじっと雨を見ていた。
「あなたと初めてのデートした日もこうして眼鏡橋を歩いた」雨を見ながら美樹が独り言のように言った。「小さい頃から何時も一緒だったような気がしていたけど、やっぱりあの時は違っていた。新しい私達が始まったと思った。あの時もこうして御書院の木々を眺めた。木々達は何時も此処にある。そして諫高も此処にある。健ちゃん、覚えてる?」
「覚えているさ」健一は言った。「二人で、大楠を見に行った。あの時僕は、小さい頃の自分を思い出した。その時の僕は水色の制服を着て其処に居た」健一はそう言ってにっこりと笑った。「其処には、他の子のお母さん達と一緒に微笑みながら僕を見ているお母さんがいた。優しい目で僕を見ていた。どう言ったらいいのか分からないけど、その小さい頃の光景は全てがひどく懐かしかった」
「幼稚園の遠足の話でしょ」
「そうだよ。そして、君も居た。大楠の根っこを滑り台にして遊んだ。二十人ほどで手を繋いで楠を取り囲んで遊んだ。
僕が根っこに自然と造られた滑り台から、勢い余って転げ落ちた。泣きべそをかいた僕に、美樹がハンカチを貸してくれた。「ハイ、健ちゃん。泣かないのよ」そう言って、ドラミチャンの付いたハンカチを貸してくれた」
「僕は何故かしらハンカチで顔を拭くと、走って逃げて行った、でしょ。あの時も同じ話をしたよ」美樹が言った。そして、白い歯を見せた。健一も笑顔を見せた。
美樹が真顔に戻った。そして、健一を見て、「帰りたいんじゃないの?」そう言った。美樹の大きな瞳がじっと健一を見つめている。
「何処に?」健一は素っ気無く言った。その口調は全てを拒絶するように冷ややかだ。だがその素っ気ない一言は、それ故に万の言葉を連ねるより、一層健一の心を雄弁に物語っているように美樹には思えた。健一はその素っ気無さの中に自分の気持ちを埋めている。
「そうなんだ。僕は帰りたいんだよ」健一は素直にそう言いたかったに違いない。「本当は何もかも放り投げて、俺は遠い昔に帰りたいんだよ。何もかも放り投げて逃げ回りたいんだよ」そう口にしたらどんなに楽になるだろう。健一は心の中で悲鳴にも似た叫び声を上げた。「俺はもう一度俺の人生を一からやり直したいんだよ」健一の声にならない悲鳴が聞こえるような気がする。我が手で我が想いを掻き毟(むし)るような懐古の情が、健一を苛(さいな)んでいた。そこには暗い深海から海面に差し込む陽光に手を伸ばすようなもどかしさがある。手を伸ばしても、伸ばしても決して届かない哀しさがある。それは、どんなに懐かしんでみても、どんなに追い求めてみても、決して帰っては来ない日々である。だが健一は、それでも必死に手を伸ばそうとする自分が哀しかった。
そんな健一の心を見透かしたように、「あなたらしいあなたによ」と美樹が言った。
「えっ」健一が美樹を見た。そして、「あなたらしいあなたにか」と物憂げに美樹の言葉を反芻した。「あなたらしいあなた?僕らしい僕?そうなんだよ。そうなんだ。でも、それが何なんだよ」健一は美樹を見た。挑むような目だ。美樹もじっと健一を見返した。一瞬挑むように、ぎらついた健一の目の光がふっと消えた。
「そうかもしれないね」と健一が言った。そして、「多分そうなんだよ」と付け加えた。
「あなたはあれが僕の高校だと言った。諫高をね」美樹はくるりと身体を反転させると御書院の木々に背を向けた。
「健ちゃん、今だって青春なんだよ」美樹が言った。「今だってずっと続いているあなたの青春なんだ。なのに、今のあなたはまるで自分の青春が過ぎ去ったものであるかのような顔をしている。自分が青春の墓場にでもいるような顔をしている。やり直せばいいんだよ」
「懐かしいんだ」健一は言った。「限りなく」そして、健一は裏門をじっと見つめた。
裏門は蒼い雨に濡れながらポツンと立っている。其処に一人の女子高校生の姿が見える。雨に濡れた髪を払おうともせずに静かに涙を流して佇んでいる。ただ黙って健一を見つめて泣いている女の子が見える。
美樹は雨紋にざわめく池に目をやった。暗い池の底から、輪郭を無くした白い魚影が幽鬼のように浮かび上がって来た。そのぼんやりとした輪郭は魚が浮上するにつれて明確さを増して行く。そして、白銀色に輝く魚体を水面に晒(さら)し、尾鰭(おびれ)を大きく反転させて、再び暗い水中へ消えた。

二人は諫早公園を出た。そして、図書館に向かって歩き始めた。何台かの車が乾いたエンジン音を響かせながら二人の横を通り過ぎて行く。三人の諫高生が足早に二人を追い越して行った。
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